ミナ・マレーの日記
同日、午後十一時
ああ、疲れた! 日記を書くのを義務と感じてなかったら、今夜は日記を開けなかっただろう。楽しい散歩だった。ルーシーが元気になったのは、灯台の近くの野原で、かわいい牛たちがこちらに向かって鼻をひくつかせて近づいてきて、私たちを驚かせたからだろう。私たちは自身の身の危険以外を何もかも忘れて、心機一転できた。ロビンフッズ・ベイでは、海藻に覆われた岩礁を見下ろせる窓のある、古風で小さな素敵な宿で、《極上の食事》をいただいた。私たちの食欲は、《ニューウーマン》【訳注:新時代の女性。女性の権利拡充運動などを行なった】にも衝撃を与えただろう。男性ならそんなに驚かないだろうから、男性はさすがね! それから私たちは、何度か、いいえ、何度も何度も休憩を取りながら、そして荒々しい雄牛への恐怖で胸がいっぱいになりながら、家まで歩いた。ルーシーは本当に疲れていたので、私たちはできるだけ早くベッドにもぐりこむつもりだった。しかし、若い副牧師がやってきて、ウェステンラ夫人は彼を晩餐に誘われた。ルーシーと私は、睡魔【訳注:Dusty Miller。サンドマンのように、人を眠りに誘う悪魔】と格闘した。とても盛大な戦いだったが、とても英雄的に戦えた。いつか主教たちが集まって、新しい類の副牧師を育てることを検討しなければならないだろう。どんなに強要されても晩餐を取らず、女の子が疲れていることを察する類の副牧師だ。ルーシーは眠っていて、静かに息をしている。いつもより頬が色づいており、とても可愛らしい。ホルムウッド氏が客間で見ただけで恋に落ちたのだとしたら、今の彼女を見たらどう言うだろうか。
《ニューウーマン》の書き手の中には、求婚や承諾をする前に、男女はお互いの眠っているところを見ることを許されるべきだという考えを持ちはじめる人が、いずれ出てくるだろう。考えてみたら、将来のニューウーマンは、プロポーズを慇懃に受けるのではなく、自分でプロポーズをするのだろう。そして、プロポーズを見事にやり遂げるのだろう! なんだか安心する考えだ。ルーシーが元気そうでうれしい。彼女は立ち直ったらしく、夢遊病もなくなった。あとはジョナサンさえいれば私は幸せだ。ジョナサンに神のご加護を。
八月十一日 午前三時
再び日記。もう眠れないので書いている。眠れないほど動揺している。私たちはすごい冒険をし、すごい苦悩を経験した。先ほどは日記を閉じてすぐに眠ってしまった。その後突然に目が覚めて起き上がると、恐ろしいほどの恐怖を感じたうえ、周囲に人の気配を感じられなかった。部屋は暗く、ルーシーのベッドは見えなかった。私は部屋を横切って彼女を探した。ベッドは空っぽだった。マッチを点けると、彼女は部屋にいないことがわかった。扉は閉まっているものの、私が鍵をかけておいたのに鍵は開いていた。最近体調が悪いルーシーのお母様を起こすのが心配だったので、服を着てルーシーを探す準備をした。部屋を出ようとしたとき、彼女が着ている服が、彼女の夢の目的地を知る手がかりになるかもしれないと思った。ガウンは家、ドレスは外を示唆する。ガウンもドレスもそれぞれの場所にあった。
「よかった。寝間着姿なんだから、遠くにいくはずがない」と、私は自分に言い聞かせた。
階段を駆け下りて居間を確認した。ルーシーがいない! 恐怖で胸が張り裂けそうになりながら、他の部屋も見て回った。ついに広間の扉まで来て、開いているのを見つけた。扉こそ開け放たれてなかったが、鍵がかかっていなかったのだ。この家の方々は毎晩鍵をかけるように気をつけているので、ルーシーがあの格好のまま外に出てしまったのではと心配になった。何が起こるか考える暇もなく、漠然とした、圧倒的な恐怖が、すべての細かな事実を覆い隠してしまった。私は大きくて重みのあるショールを手に、外に飛び出した。私がクレセントに着いた時には時計は一時を回っており、人影は見えなかった。私は北段丘を走ったが、探している白い人影は見つからなかった。桟橋の上の西崖の端から、港の向こうの東崖を見た。私たちのお気に入りの席にルーシーが座っているのではと、期待したから、もしくは心配したからだ──どちらだったかわからない。明るい満月と、流れゆく黒く重い雲が、景色全体を光と影のジオラマに変えていた。雲が聖マリア教会とその周囲に影を落とし、一瞬何も見えなくなった。そして、雲が過ぎ去ると、修道院の廃墟が見えてきた。剣で切ったように鋭く細い光の帯が差し込み、教会と教会墓地が次第に見えてきた。私の期待がどのようなものであったとしても、それは裏切られることはなかった。私たちのお気に入りの場所に半ば横たわる、雪のように白い人物を、月の銀の光が照らした。雲がすぐに流れてきて、月光が影に遮られてよく見えなかったが、白い人影が輝いている席の後ろに暗いものが立っていて、その上に身を屈めているようだった。それが人なのか獣なのか、私にはわからなかった。再度確認する時間も惜しく、急な階段を駆け下りて桟橋に向かい、魚市場を通って橋に向かった。橋は東崖に行くための唯一の道なのだ。町はまるで死んでしまったかのようで、人っ子一人いない。私はこれを喜んだ。哀れなルーシーの状態を目撃されたくなかったのだ。時間と距離が果てしなく長く感じられた。修道院までの果てしない階段を苦労して登ると、膝は震え、息が切れた。早足で登ったはずなのに、足に鉛の重りがついていて、体のあらゆる関節が錆びついているような気がした。階段の上まで来ると、椅子と白い人影が見えた。月光がなくとも視認できるほど近くなったのだ。そこには間違いなく、黒くて長い何かが、半ば横になっている白い人影の上に身を屈めていた。私は驚いて呼びかけた。
「ルーシー! ルーシー!」
すると、何かが頭をもたげた。私のいる場所から、白い顔と赤く輝く目が見えた。ルーシーが返事をしなかったので、教会墓地の入り口まで走った。教会墓地に入ると、私と椅子の間に教会が立ち塞がる形となり、一分ほど彼女の姿が見えなくなった。再び見えるところに来たときには、雲は過ぎ去り、月光が景色を鮮やかに照らし出していたため、ルーシーが椅子の背もたれに頭を預けて、半ば横になっているのが見えた。彼女は一人きりで、ほかに生き物の気配は全くない。
彼女の上にかがむと、彼女がまだ眠っているのがわかった。唇を開いて息をしてた──いつものように静かにではなく、まるで一息ごとに肺をいっぱいにしようとするような、長く重いあえぎだった。私が近づくと、彼女は眠ったまま手を上げ、寝間着の襟を喉のあたりに引き寄せた。そうしながら、彼女は寒さを感じたのか、少し身震いした。私は彼女に暖かいショールをかけ、その縁を首に巻きつけた。彼女が薄着なので、夜風でひどい風邪を患ってしまうことを恐れたのだ。すぐに彼女を起こすのは心配だった。なので、自分の両手を自由に使えるようにして彼女を介抱しようと、大きな安全ピンでショールを彼女の喉元に留めた。不安から手元を誤ったのか、ピンで彼女をつねったり刺したりしてしまったのかもしれない。彼女の呼吸が静かになったとき、再び喉に手を当てて呻いたからだ。私は、彼女をショールで丁寧にくるむと、自分の靴を彼女の足に履かせ、それから非常に優しく彼女を起こしはじめた。彼女は最初は何も答えなかったものの、次第に眠りが浅くなり、時折うめき声やため息が出るようになった。やがて、時間の過ぎる速さや、その他さまざまな事情から、すぐにでも家に帰らせたくなったので、もっと強く揺さぶると、ついに瞼を開け、目を覚ました。彼女は私を見て驚いていないようだったが、自分がどこにいるのかすぐには分からなかったのだろうから無理もない。ルーシーはいつも美しく目を覚ます。体は寒さで冷え切っていただろうし、夜の教会墓地できちんと服も着ていない状態で目覚めたことに少々混乱していたろうに、そんなときでも彼女は優美さを失うことがなかった。彼女は少し震えて、私にしがみついた。すぐに一緒に帰りましょうと言うと、彼女は何も言わずに、子供のように素直に立ち上がった。歩くうちに砂利道で足が痛くなり、ルーシーも私が痛がっているのに気づいた。彼女は立ち止まり、彼女が履いている靴を履くように言ったが、私は承知しなかった。教会墓地の外の小道まで来ると、嵐でできた水たまりがあったので、私は両足を交互に泥だらけにして、万が一誰かに出会っても、私の裸足が気づかれないようにした。
幸運にも、私たちは誰にも会わずに家に帰ることができた。一度だけ、しらふではないらしい男が目の前の通りを通り過ぎるのを見かけたが、彼が姿を消すまで私たちは、この土地にあるような急な小道、スコットランドで言うところの《wynds》【訳注:路地】に隠れてやり過ごした。私の心臓はずっと大きく鼓動しており、時には気絶するのではないかと思うほどだった。ルーシーのことが心配でたまらなかった。薄着で彼女の健康が損なわれることだけでなく、万が一この話が噂になったときの彼女の評判も気にかかった。家に入り、足を洗い、一緒に感謝の祈りを捧げた後、彼女をベッドに寝かしつけた。眠りにつく前に、彼女は、たとえお母様相手であっても、自分の夢遊の冒険について一言も言わないでほしいと頼んだ。懇願さえした。私は最初、約束するのをためらった。しかし、彼女のお母様の健康状態を考え、そのようなことを知ったらどれほど心配なさるか、また、そのような話が漏れた場合にどのように歪曲されかねないか、いや、間違いなく歪曲されるだろうことを考えると、秘密にするのが賢明だと思った。これが正しい判断だったと願っている。扉に鍵をかけ、鍵は私の手首に結ばれているので、おそらくもう眠りを妨げられることはないだろう。ルーシーはぐっすり眠っている。日の出の光が、高く、遠く海の上に反射している。
同日、正午
すべてうまくいっている。ルーシーは私が起こすまで寝ていて、寝返りもうたなかったようだ。夜の冒険が彼女を傷つけたようには見えない。それどころか、今朝は、ここ数週間のうちで一番元気そうだ。安全ピンで手元を誤って彼女を傷つけたことに気づき、申し訳なく思った。喉の皮膚に穴が開いていたので、もう少しで深刻な事態になっていたかもしれない。私が皮膚の一部をつまんで刺してしまったのか、彼女の皮膚にはピンで刺したような小さな赤い点が二つあり、彼女の寝間着の帯に血が一滴ついていた。謝って心配すると、彼女は笑って私を撫で、何も感じなかったわと言った。幸いなことに、とても小さな傷なので、傷跡は残らないだろう。
同日、夜
私たちは幸せな一日を過ごした。空気は澄んでおり、太陽は明るく、涼しい風が吹いていた。私たちはマルグレイブウッズで昼食をとることとなり、ウェステンラ夫人は馬車で、ルーシーと私は崖の小道を歩いて向かい、門で合流した。ジョナサンが一緒だったらどんなに幸せだったろうと思い、少し寂しくなった。でも我慢しなければ! 夕方、私たちはカジノ・テラスを散策し、シュポーアやマッケンジーの素晴らしい音楽を聴いた後、早めにベッドに入った。ルーシーはこのところ見なかったほど安らかな顔をして、すぐに眠ってしまった。今夜は何も起きないだろうが、これまでと同じように鍵をかけ、問題が起こらないようにしないと。
八月十二日
私の予想は間違っていた。夜中に二度、ルーシーが外に出ようとしたので目を覚ましたのだ。寝ていても、扉が閉まっていることに少し焦っているようで、抗議するような感じでベッドに戻っていった。夜明けとともに目が覚めると、窓の外から鳥のさえずりが聞こえてきた。ルーシーも目を覚まし、前日よりもさらに元気になっていたのが嬉しかった。以前のような陽気さが戻ってきたようで、私の横に寄り添ってきてアーサーのことを全部話してくれた。私は、ジョナサンについてどれほど心配しているかを話し、彼女は私を慰めようとした。どうやら効果はあったようだ。同情は事実を変えられないが、事実を耐える助けにはなる。
八月十三日
またもや静かな一日で、前回と同じように手首に鍵をつけたまま就寝した。夜中にまた目が覚めると、ルーシーが眠りながらベッドに座っていて、窓を向いていた。私は静かに起き上がり、ブラインドを引いて外を見た。月明かりが海や空を照らしていた。月の柔らかな光が、大きく静かな神秘に溶け込んでおり、言葉にできないほどの美しさだった。私と月明かりの間を大きなコウモリが飛び回り、大きな旋回を繰り返しながら行き来していた。一度か二度、かなり近くまで飛んで来たが、私を見て怯えたのか、港を横切って修道院の方へ飛び去っていった。窓から戻ると、ルーシーは再び横になり安らかに眠っていた。彼女はその後一晩、再び動くことはなかった。
八月十四日
東崖で一日中、本を読んだり、文章を書いたりしている。ルーシーは私と同じようにこの場所を気に入っているようで、昼食、お茶、夕食のために家に帰る時間になっても、なかなか離れようとしない。今日の午後に彼女は奇妙なことを言った。私たちは夕食のために帰路についたところで、西埠頭から上がる階段の一番上まで来て、いつものように景色を見るために立ち止まった。空低く沈む夕陽は、ちょうどケトルネス岬の背後に隠れるところだった。赤い夕日が東崖と古い修道院を照らし、すべてを美しいバラ色の光で包んでいるように見えた。私たちはしばらく沈黙していたが、突然ルーシーが独り言のようにこうつぶやいた。
「また彼の赤い目! そっくりだわ」
何の脈絡もない何とも奇妙な表現で、非常に驚いてしまった。ルーシーを凝視することなく様子を伺えるよう、少し周りを見回した。彼女は半ば夢の中にいるような状態で、よく分からない奇妙な表情をしていたので、私は何も言わずに彼女の視線を追った。彼女は東崖の我々の椅子を見ているようで、そこには暗い人影が一人座っていた。一瞬、燃えるような鋭い目をしているように見えたので少し驚いたが、見直すと錯覚が解けた。私たちの椅子の向こうにある聖マリア教会の窓に赤い夕日が射しており、太陽が沈むと屈折や反射が変化して、光が動いているように見えるのだ。私はルーシーにこの奇妙な効果について話した。彼女は驚いて我に返ったが、まだしも悲しげだった、彼女があの恐ろしい夜のことを思い出していたのかもしれない。私たちはその夜について言及しないと決めていたので、私は何も言わず、家に帰って夕食を食べた。ルーシーは頭が痛いと言って早くに寝た。彼女が眠っているのを確認してから少し散歩に出かけた。崖に沿って西の方に歩いていったが、ジョナサンのことを考えて甘い悲しさに襲われた。帰路について──月明かりが明るく、クレセントの私たちの部屋の前が影になっているにも関わらず、すべてがよく見えるほどだった──窓を見上げると、ルーシーが身を乗り出しているのが見えた。彼女が私を探しているのではと思い、ハンカチを開いて振ってみた。彼女は何も気づかず、何の動きも見せなかった。その時、月明かりが建物の角を回りこみ、月光が窓を照らした。そこには、窓枠の横に頭をもたれさせ、目を閉じたルーシーがはっきりと見えた。彼女はすっかり眠っていて、その傍らの窓枠には、それなりの大きさの鳥のようなものがとまっていた。彼女が風邪をひくのではないかと心配で、上階に駆け上がった。部屋に入ると、彼女はベッドに戻っており、早くも眠っていて、荒い息で、寒さから守るかのように喉に手を当てていた。
私は彼女を起こさず、暖かくなるよう毛布をしっかりとかけた。扉に鍵をかけ、窓をしっかりと締めるように気をつけた。
眠る彼女はとても素敵に見える。しかし、顔色がいつもより青白く、目の下には引きつったようなやつれた感じがあり、私はそれが気に入らない。何か悩んでいるのではと心配になる。それが何か知りたいものだ。
八月十五日
いつもより遅い時間に起きた。ルーシーは気だるげで、疲れていて、私たちが呼ばれた後も眠っていた。朝食の時に嬉しい驚きがあった。アーサーのお父様が回復され、息子が早く結婚をすることを望んでいるのだ。ルーシーは静かな喜びに満ちており、ルーシーのお母様は喜ぶと同時に悲しんでいる。後ほど、お母様は理由を話してくれた。ルーシーを失うことは寂しいが、ルーシーを守ってくれる人がもうすぐ現れることを喜んでいるのだそう。おかわいそうな、優しい奥様! お母様は、ご自身が死の宣告を受けたことを告白してくださった。ルーシーにはまだ内緒とのことで、秘密厳守を約束させられた。医者によると、心臓が弱っているため長くても数カ月の命だというのだ。いつでも、今だって、突然の衝撃で亡くなる恐れがある。ルーシーが夢遊した恐ろしい夜について内緒にしたのは、賢明なことだったようだ。
八月十七日
丸二日、日記が書けていない。書く気になれなかったのだ。私たちの幸せに、ある種の暗い影が差しているようだ。ジョナサンからの知らせもなく、ルーシーはますます弱っているようだし、ルーシーのお母様に残された時間は無くなっていく。ルーシーがこのように衰弱する理由がわからない。ルーシーはよく食べ、よく眠り、新鮮な空気を楽しんでいる。しかし、頬のバラ色は消え、日に日に弱り、倦怠感が増している。夜には、息苦しそうなあえぎが聞こえる。私は夜間、扉の鍵を常に手首に留めているのだが、彼女は起きて部屋を歩き回り、開いた窓の前に座っている。昨夜、私が目を覚ますと、彼女が窓から身を乗り出しているのを発見した。彼女は気絶しており、起こそうとしても無理だった。私が意識を取り戻させると、彼女はひどく衰弱しており、長く苦しげに息を詰まらせながら静かに泣いていた。どうして窓際にいるのかと尋ねると、彼女は首を振って背を向けた。彼女の体調が悪いのは、あの安全ピンを刺したせいではないと思う。今、眠っている彼女の喉を見たが、小さな傷は治っていないようだ。傷口はまだ開いており、むしろ前より大きくなっていて、その縁はかすかに白くなっている。白い小さな点に、赤い中心がある。一両日中に治らなかったら、医者に見てもらうよう説得するつもりだ。
手紙 サミュエル・F・べリングトン法律事務所(ウィトビー)よりカーター・パターソン運送会社(ロンドン)宛
八月十七日
親愛なる皆様
グレートノーザン鉄道により運送予定の物品の送り状を同封いたします。キングスクロス駅にて物品受領後、直ちにパフリート近郊のカーファックスにてお引渡しくださいませ。この家屋は現在空家ですが、鍵を同封いたします。全ての鍵にラベルが貼ってございます。
荷物である五十個の箱を、同封の略図に《A》と記された場所である、屋敷の一部であり廃墟と化しつつある建屋にお預けください。この邸宅の古い礼拝堂なので、作業者も場所を容易に特定できるかと存じます。物品は今夜九時三十分に列車にて発送され、明日午後四時三十分にキングスクロスに到着予定です。依頼主はできるだけ早い配達を希望しておりますので、指定された時刻にキングスクロス駅に配達員を配置し、目的地まですぐに配達していただけると助かります。貴社規定の支払い要件を満たさないことでの遅延を避けるため、十ポンドの小切手を同封いたしますので、ご受領ください。もし、経費が十ポンドより少ない場合は、残額を返金していただけましたら結構です。十ポンド以上必要な場合は、ご連絡をいただき次第、すぐに差額分の小切手をお送りいたします。撤収の際は、鍵を広間に残置してください。後ほど家主が合鍵にて入館し、回収いたします。あらゆる工程での迅速さをご要求したことが、仕事上許容される域を逸してないことを願っております。
親愛なる皆様へ
サミュエル・F・べリングトン法律事務所
手紙 カーター・パターソン運送会社(ロンドン)よりサミュエル・F・べリングトン法律事務所(ウィトビー)宛
八月二十一日
親愛なる皆様へ
十ポンドを受領し、同封の通り、超過分の一ポンド十七シリング九ペンスを小切手として返却します。商品は指示通りにお届けし、鍵も指示通り大広間の小包にお入れしました。
親愛を込めて
敬具
カーター・パターソン運送会社
ミナ・マレーの日記
八月十八日
今日は嬉しくて、今は教会墓地の座席に座って日記を書いている。ルーシーはとても元気になった。昨夜は一晩中ぐっすり眠り、一度も私の眠りを妨げなかった。頬にはもうバラ色が戻っているようだ。まだ悲しいほど青ざめていて、やつれて見える。もし彼女が貧血なのなら理解できるが、そうではない。彼女はとても元気で、生き生きとしている。病的な寡黙さはすっかり消えたようだ。そして彼女は先ほど、まるで私に思い出す必要があるかのように、あの夜のことを思い出させた。まさにこの椅子で、眠る彼女を見つけたことを。彼女は、ブーツのかかとで石板を遊び半分に蹴りながらこう言った。
「私の小さな足は、あの時あまり音を立てなかったわね! おかわいそうなスワレスさんなら、きっと、ジョーディを起こしたくなかったからそうしたんだろうって言ったでしょうね」
彼女がとても饒舌だったので、夜に夢を見たかどうか尋ねてみた。答える前に、彼女の額に、アーサー──彼女に倣って私もアーサーと呼んでいる──が好きだと言う、あの可愛らしい、しわが寄ったような表情が浮かんだ。実際、彼が好きになるのも当然の表情だ。そして彼女は、まるで自分に思い起こさせようとするかのように、半ば夢見心地で続けた。
「夢ではなく、すべて現実に思えたわ。私はこの場所にいたかっただけなの──なぜかはわからないけれど、何かを恐れていたからだと思う──何をかはわからないわ。眠っていたのだろうけど、それでも街頭を通って、橋を渡ったのを覚えてる。橋の横で魚が跳ねたので、身を乗り出してそれを見たのよ。階段を上っていくと、たくさんの犬の遠吠えが聞こえた──町中が犬でいっぱいで、一斉に遠吠えしているみたいだった。それから、夕暮れに見たような、赤い目をした長くて暗いものがぼんやりと浮かんで、とても甘くてとても苦いものが私の周りにあらわれたような、朧げな記憶があるの。それから私は、深い緑の水に沈んでいったの。溺れる人が聞くという歌が、耳から聞こえてきた。それから、ぜんぶが消え去って、魂が体から出て宙に浮かぶようになった。西灯台が真下に見えたわ。それから地震にあったような苦しい感じがして、目が覚めたら、あなたが私の体を揺すっていたのを覚えている。あなたの揺さぶりを感じる前に、あなたが揺さぶってるのを見たのよ」
そして彼女は笑いはじめた。少し不気味に思え、固唾を飲んで彼女の話を聞いた。その話があまり好きではなかったので、彼女の関心をその話題に引き留めない方がいいと思った。そこで他の話題に移ると、ルーシーはまた以前のようになった。帰宅すると、新鮮な風が彼女を元気にしたのか、青白かった頬が本当にバラ色になっていた。ルーシーのお母様はそれを見て喜び、私たちは皆、とても幸せな一夜を過ごした。
八月十九日
嬉しい、嬉しい、嬉しい! 嬉しいばかりではないが、それでも嬉しい。ついにジョナサンの知らせがあった。彼は病気になっていて、そのため手紙を出せなかったのだ。そう知った今となっては、病気のことを考えたり、言ったりすることも怖くない。ホーキンスさんは私に手紙を転送し、とても親切にも一筆書き添えてくれた。私は朝ここを出発して、ジョナサンのもとへ行き、必要なら看病を手伝い、家に連れて帰るつもりだ。ホーキンスさんは、私たちが向こうで結婚するのも悪くないと言う。胸元に仕舞ったシスターの手紙が湿っているのを肌で感じられるほど、手紙を持って泣き通しだった。ジョナサンからの手紙なので、私の心の近くになければならない。彼は私の心の中にいるのだもの。旅の計画は完了し、荷物は準備済みだ。着替えを一着だけ持っていく。ルーシーが私のトランクをロンドンに持っていき、私が使いをよこすまで預かってくれるだろう。だって、もしかしたら──。これ以上日記を書かず、夫であるジョナサンに言うために取っておかなければならない。彼が見て触れたこの手紙は、私たちが会うまで私を慰めてくれるに違いない。
手紙 聖ヨセフ&聖マリア病院(ブダペスト)のシスター・アガサよりウィルヘルミナ・マレー嬢宛
八月十二日
奥様へ
ジョナサン・ハーカー氏の意向により代筆を執ります。聖ヨセフ、聖マリアの加護もあり経過は良好ですが、筆を執るには充分な体力がないためです。彼は激しい脳熱のために、六週間近くも私どもの治療を受けています。彼はあなたへの愛を伝えることを私に望み、同封のエクセターのピーター・ホーキンス氏宛の手紙では、彼の仕事がすべて完了したことと、遅延を申し訳なく思っていることを、彼の心からの敬意を込めて伝えることを望んでいます。彼は丘の間にある私どもの療養所にて二、三週間の休養が必要ですが、その後帰国できるでしょう。彼は、自分は充分なお金を持っていないこと、しかし他に必要とする人が援助に困ることはないように滞在費を払いたいことを、あなたに伝えてほしがっています。
信じていただけることを願いつつ
親愛と祈りを込めて
シスター・アガサ
追伸:患者が眠っているので、あなたにもっと知らせるため追記します。彼はあなたのことを話してくれました。もうすぐ彼の妻になるそうですね。ご両名に祝福を! 彼は恐ろしい衝撃に見舞われ──医師によるとですが──その譫言は恐ろしいものでした。オオカミ、毒、血、幽霊、悪魔、そして口にするのも恐ろしい物たち。今後長い間、この類の話で興奮させないように、常に注意してください。彼のような病気の後遺症は、軽く消えるものではありません。もっと前に手紙を書くべきでしたが、私たちは彼の友人について何も知らず、それが把握できるものは何も身につけていなかったのです。彼はクラウゼンブルクから列車でやってきて、帰りの切符をくれと叫んで駅に駆け込んできたと、車掌が駅長から聞いたそうです。その乱暴な態度から英国人だとわかったので、汽車で行ける範囲で英国方面の一番遠い駅までの切符を渡したそうです。
ここでは充分に彼の面倒をみていますのでご安心ください。彼は思いやりと優しさがあるので、皆の心を掴んでいます。彼は本当によくなってきており、数週間もすればすっかり良くなると確信しています。しかし、念のために彼には注意してください。ご両名が末永く幸せにお過ごしになることを、神と聖ヨゼフと聖マリアにお祈りします。
スワード博士の日記
八月十九日
昨夜、レンフィールドは奇妙な変化を遂げた。八時ごろから興奮しはじめ、けしかけられた犬のように鼻を鳴らしはじめた。世話人は彼の行動に驚き、僕が彼に関心を持っていることを知っていたため、レンフィールドに何か話すよう促した。レンフィールドは日ごろ世話人に敬意を払い、時には卑屈ですらあるが、その夜の彼はかなり高慢で、口を利こうとさえしなかったそうだ。彼が言うのはせいぜいこういったことだった。
「お前とは話したくない、お前はもうどうでもいい、ご主人様はもう目前にあられる」
突然の宗教的狂気に襲われたのだろうと世話人は考えている。もしそうなら、一波乱に気をつけねばならない。殺人狂と宗教狂を併発した力の強い者は危険だろうから。この組み合わせは恐ろしいものだ。九時、僕は彼を訪ねた。僕に対する態度は世話人に対するものと同じで、彼の高慢な自己感情の中では、僕と世話人の違いは彼にとって無きに等しいと思われた。宗教狂のようだし、やがて自分自身が神であると考えるようになるだろう。人間と人間との間のこのような小さな区別は、全能の存在にとってはあまりにも些細なことなのだ。このような狂人たちは、すぐに正体を露わにする! 本物の神はスズメの一羽が落ちるのも気にかけるが、人間の虚栄心から創られた神は、鷲とスズメの違いにも見向きもしない。ああ、人々がこれを知ってさえいれば!
三十分以上にわたり、レンフィールドはますます興奮し続けた。僕は見ているそぶりは見せなかったが、厳重に観察していた。その時、彼の目に、狂人が何かを思いついた時に必ず見せる鋭い眼光と、精神病院の世話人達がよく知っている、頭と背中の揺らぐような動きが現れた。彼はすっかり静かになり、諦めたようにベッドの端に座り、うつろな目で宙を眺めていた。僕は、彼の無関心が本当なのか、それとも単にそう見えるだけなのかを見極めようと思い、今まで彼の注意を惹かなかったことのない話題であるペットの話に誘導した。最初は何も答えなかったが、やがて苛立たしげに言った。
「あいつらなんてクソ喰らえだ! あんなの、もうどうでもいいんだ」
「なんだって」と僕は言った。「まさかクモがどうでもいいって言うのか」
(目下、クモは彼の趣味であり、手帳は小さな数字の列で埋め尽くされているのだ。)これに対して彼は謎めいた答えを返した。
「花嫁の付き添いの乙女たちは、花嫁の到来を待つ人々の目を喜ばせるが、花嫁が近づくと人々の目は満たされ、もはや乙女たちは輝かない」
彼はその言葉を説明しようとせず、僕が彼と一緒にいる間中、頑なにベッドの上に座ったままだった。
今夜の僕は疲れていて元気がない。ルーシーがプロポーズを承諾すればどうなっていたかを考えずにはいられない。すぐに寝られないのなら、現代のモルペウスことクロラールの出番だ──C{2}HCl{3}O.H{2}O! 摂取が癖にならないように気をつけないと。いいや、今夜は飲まないこととする! ルーシーのことを考えていたのだから、薬とルーシーをごたまぜにして彼女の名誉を汚す気はない。必要とあらば、今夜は眠れぬ夜となるだろう。
その後。
薬を飲まない決意をして良かったし、それを守ってもっと良かった。僕が寝そべっていて、時計が二回鳴るのを聞いたとき、夜間警備員が病室からやってきて、レンフィールドが逃げ出した旨を報告した。僕は服を着てすぐに駆け下りた。僕の患者は徘徊するには危険すぎる人物だ。見ず知らずの人に対して、彼の思想は害を及ぼすかもしれない。世話人は僕を待っていた。彼は、ここ十分以内に、ベッドで眠っているようなレンフィールドを扉の観察用窓から見たのだ、と言った。窓をこじ開ける音で注意を引かれたのだという。走ってレンフィールドの部屋に戻り、レンフィールドの足が窓から消えるのを見て、すぐさま僕を呼び寄せたそうだ。レンフィールドは寝巻きを着ていただけなので遠くには行けないはずだ。世話人は、扉から建物の外に出るときにレンフィールドを見失うかもしれないので、後を追うよりここから行く先を見ていた方が得策と考えたのだ。その世話人は体格のいい男で、窓を通り抜けることができなかった。僕は痩せていたので、彼に助けられながら窓から足を先に出し、地上二、三フィートだったので無傷で着地した。世話人によると、患者は左に一直線に走ったらしいので、僕はできるだけ早く走った。木立の間を抜けると、荒れ果てた家とうちの敷地を隔てる高い塀に白い人影がよじ登っているのが見えた。
僕はすぐに戻り、患者が危険かもしれないので、ただちに三、四人の部下を連れてきて、カーファックスの敷地内までついてくるよう警備員に指示した。僕は自分で梯子を取ってきて、塀を越えて反対側に降りた。レンフィールドの姿が家の角の向こうに消えていくのが見えたので、僕は彼の後を追いかけた。家の裏手で彼が、礼拝堂の、古い鉄で裏打ちされたオーク材の扉のすぐそばにいるのを見つけた。彼は誰かと話しているようだったが、彼が何を言っているのか聞くために近づくのが怖かった。彼が僕に怖がって逃げるかもしれないからだ。蜂の群れを追いかけるのだって、逃げ出す衝動に駆られている裸の狂人を追いかけるのに比べれば、たいしたことではない! しかし二、三分後、彼が周りの何も気にしないことが分かったので、思い切って彼に近づいた。僕の部下が塀を越えて彼に近づいてきていたため、更に近づいた。僕は彼がこう言うのを聞いた。
「私はあなたの命令を実行するためにここにいます、ご主人様。私はあなたの奴隷です。あなたは私の忠誠に報いてくださいますでしょう。私は長い間、遠くからあなたを拝んでまいりました。今、あなたが近くにいるのですから、命令をお待ちします。親愛なる主人よ、褒美を分配するときに、まさか私を見過ごしませんでしょうね」
わがままな年寄りの乞食だ。彼は臨在を信じている時でさえも、パンと魚のことを考えるのだ。彼の狂気は驚くべき結果を編み出す。僕たちが彼に迫ると、彼は虎のように闘った。彼は非常に強く、人間というより野生の獣のようだった。こんな怒りの発作を起こした狂人は見たことがないし、二度と見たくない。彼の強さと危険を事前に察知していたのは不幸中の幸いであった。彼のような強さと熱意があれば、檻に入る前に荒々しいことをしていたかもしれない。とまれ、彼はもう安全だ。ジャック・シェパードであっても、この拘束服から自由になることができないだろうし、その上に緩衝材入りの部屋で壁に鎖でつながれているのだ。彼の叫び声は時にひどく、しかしその後に続く沈黙はさらに恐ろしい。彼のすべての身じろぎが殺意を意味しているからだ。
今、やっと彼は初めて理解できる言葉を話した。
「私は我慢します、ご主人様。来ている──来ている──来ている!」
そこを区切りとして、部屋に戻ったのだった。興奮して眠れそうになかったが、この日記をつけて落ち着いたので、今夜は少し眠れそうだ。