第十章

手紙 スワード博士からアーサー・ホルムウッド閣下宛

九月六日

親愛なるアート

今日の知らせはあまり良いものではない。今朝、ルーシーの健康状態が後退していた。しかし、一つだけ良いことがあった。ウェステンラ夫人が当然ルーシーのことを心配し、ルーシーのことを専門的に僕に相談してきたのだ。この機に乗じて、古い師で偉大な専門家であるヴァン・ヘルシングが我が家に滞在することになったので、ルーシーを僕と彼の共同の担当患者にすると言った。これでルーシーの母親を過度に心配させずに行き来できる。ルーシーの母親に衝撃を与えることは突然死を意味する。ルーシーの体調が弱っている今の状況では、母親の死はルーシーにとっても悲惨なことかもしれない。友よ、僕たちは皆、困難に陥っているのだ。しかし神の御心により、それを乗り越えていけるだろう。必要があれば手紙を書く。僕からの連絡がなくても、まだ伝えるべきことを待っているだけだと思ってくれ。取り急ぎご連絡まで。

以上

ジョン・スワード

スワード博士の日記

九月七日

リバプール通りで会った時、ヴァン・ヘルシングが最初に言ったのは次のようなことだった。

「彼女の恋人である若い友人に何か言ったかね」

「いいえ。電報に書いたように、あなたに会うまで待ちました。ウェステンラ嬢の具合が悪いのであなたが来るとだけ伝え、必要なら知らせると手紙を書きました」と僕は答えた。

「よくやった、友よ」と彼は言った。「全くよくやった! 彼はまだ知らないほうがいい、おそらく彼は一生知らない方がいいかも知れない。しかし、必要であれば、彼はすべてを知ることになる。そして、ジョン君よ、君に警告しよう。君は狂人を相手にしている。すべての人は何らかの形で狂っており、君は自分の管轄の狂人に慎重に対処するのと同様に、神の狂人、すなわち世界の他の人々にも慎重に対処しなさい。君は自分の狂人に、自分が何をしているのか、なぜそうするのか、自分が何を考えているのかを話さない。つまり知識は、安息させることができ、その周りに同類の知識を集めて繁殖させることができる、あるべき場所に留めるべきなのだ。君と私は、我々が知っていることを、まだここと、ここに留めておかなければならない」彼は僕の心臓あたりと額に触れ、そして自分にも同じように触れた。「今のところは私の考えは私の胸に留めておく。後で君にも話そう」

「なぜ今ではないのでしょう」と僕は尋ねた。「何か役に立つかもしれませんし、何か結論が出るかもしれませんよ」

彼は立ち止まり、僕を見て言った。

「ジョン君、たとえば小麦が成長して、まだ熟す前であるとしよう──母なる大地のミルクが内に含まれ、太陽の光がまだ彼を黄金色に塗りはじめないうちであるにも関わらず、農夫は穂を引き、荒れた手の間で穂をもみ、緑のもみ殻を吹き払い、君に言うだろう。《見てくれ! これは良い小麦だ。時期が来ればいい収穫になるだろう》と」

僕はその例えを理解できず、彼にそう伝えた。その返事として、彼は手を伸ばして僕の耳を手に取り、昔、講義の時によくやったように、戯れにそれを引っ張って言った。

「できる農夫は、自分が知っているからそう言うのであって、知らないときは言わないのだ。しかし、できる農夫が、植えた小麦が育ったかどうかを調べるために、土を掘り起こすことはない。それは農作業の真似事で遊ぶ子供のすることで、農作業を生業とするものの行為ではない。どうだねジョン君、わかったかい。私は小麦の種を蒔き、そして自然が種を芽吹かせるための仕事をしている。もし芽が出れば、その種は見込みがある。そして私は穂が膨らみはじめるまで待つのだ」

彼は、僕が理解したのを察したのか、耳から手を離した。それから彼は、とても重々しくこう続けた。

「君はいつも注意深い生徒で、君の症例記録は他の生徒の症例記録より常に充実していた。当時はまだ学生だったが、今は玄人なのだから、良い習慣が失われていないと信じるよ。友よ、次のことに気をつけるべきだ。知識は記憶よりも強く、私たちは弱きものを信じるべきではない。たとえ君が良い習慣を守っていなかったとしても、言っておくが、親愛なるお嬢さんのこの一件は、もしかしたら──もしかしたらに過ぎないが──我々や他の人々にとって非常に興味深いものかも知れず、君たち英国人の言い方をすると、他の症例と比べて劣ることはない【訳注:kick the beam】のだ。よく記録をつけなさい。この世に些細なことなどない。君の疑問や推測も記録しておいてくれ。今後、自分の推測がどれほど正しかったか、興味を持つことになるかもしれない。我々は失敗から学ぶのであって、成功から学ぶのではないのだから!」

僕がルーシーの症状──以前と同じであるが、はるかに顕著であった──を説明すると、彼は非常に深刻な表情をしたが、何も言わなかった。彼は鞄の中にたくさんの器具や薬を入れて持っていった。かつて彼が講義の中で《我々の有益な商売のおぞましい道具》と呼んだ、治療の術の使い手の教授の装備品だ。僕たちが中に入ると、ウェステンラ夫人が僕たちを出迎えた。彼女は警戒していたが、僕が予想していたほどではなかった。恩恵的な気分になった自然が、死でさえも恐怖に対する解毒剤を持つように定めているのだ。この状況ではどんな衝撃も致命傷になりかねないのだが、自身に関しないことには──つまり彼女がとても愛している娘の恐ろしい変化にさえも──心が動かされないように、何らかの原因によって事態はとても秩序立てられていた。それは、母なる自然が異物の周りに鈍感な組織の包みを作り、接触すれば害になるものから守るのと同じようなものだ。もしこれが秩序だった利己主義であるなら、僕たちは利己主義の悪徳を非難する前に再考すべきだ。なぜなら、利己主義の原因には、僕たちの知識以上に深い根源があるかもしれないからだ。

僕はこの精神病理についての知識を駆使し、ルーシーの母親は診察時にルーシーと一緒にいてはいけない、必要以上に病気のことを考えてはいけないという規則を立てた。彼女は快く承諾してくれたので、僕は自然の手が彼女の命のために戦っているのを再び見てとれた。ヴァン・ヘルシングと僕はルーシーの部屋まで案内された。昨日彼女を見たとき衝撃を受けたとすれば、今日彼女を見たときは恐怖にぞっとした。彼女は恐ろしいほど蒼白であった。唇と歯茎から赤みが消え、肉が落ちて顔の骨が際立って見えた。彼女の呼吸は、見るのも聞くのも辛かった。ヴァン・ヘルシングの表情は大理石のようにかたまり、眉毛は鼻の上に触れそうなほどまでに寄せられた。ルーシーは動かず寝そべったままで、話す気力もないようだったので、しばらくはみんな黙っていた。そして、ヴァン・ヘルシングは僕に手招きをし、僕たちはそっと部屋を出て行った。扉を閉めた途端、彼は通路を素早く歩いて、隣の開いている扉まで行き、僕を引き寄せると、扉を閉めた。

「なんてことだ!」と彼は言った。「恐ろしいことだ。一刻も無駄にしてはならない。心臓の動きを維持するための血液の不足により死んでしまうだろう。すぐにでも輸血をしなければならない。君かね、それとも私かね」

「僕の方が若くて強いですよ、教授。僕でなければなりません」

「では、すぐに準備をしなさい。鞄を持ってくる。備えてきたんだ」

僕と彼が一緒に階下に降りている途中で、広間の扉をノックする音がした。僕たちが広間に着いたとき、ちょうどメイドが扉を開けたところで、アーサーが急いで中に入ってきた。彼は僕のところに駆け寄ってきて、熱心に囁いた。

「ジャック、心配してたんだ。手紙の行間を読んで悶々としていた。父上が良くなったので、自分の目で確かめようと思って、ここに駆けつけたわけさ。あの方がヴァン・ヘルシング博士かな。よくぞ来てくださいました」

教授は、最初に彼に目をやったときは、この状況で邪魔されたことに腹を立てていた。しかし今、彼のたくましい体格を見て、彼から発せられる強い男らしさを認めると、彼の目は輝いた。間髪入れずに彼は手を差し出しながら、重々しくこう言った。

「ちょうどいいときに来たね。私たちの愛するお嬢さんの恋人が君かな。彼女の体は悪い。とても、とても悪いんだ。いや、我が子よ、そんなふうではいけないよ」これは、アーサーが突然青ざめ、気絶しそうになりながら椅子に座ったからだ。「彼女を助けなさい。君はこの世に生きる誰よりも多くのことをできるし、君の勇気が助けになるだろう」

「どうしたらいいのでしょうか」アーサーは掠れた声で聞いた。「あなたの言うとおりにします。私の命は彼女のものだ。彼女のためなら、私の体中の血の最後の一滴まで捧げます」

教授はユーモアを解する心が強く、僕はかつての記憶から、彼の答えにそのユーモアの痕跡を見出せた。

「若いお方よ、私はそこまでは求めないね──最後の一滴までは必要無いよ!」

「どうすればいいんですか」

その時、彼の目には炎が宿っており、開いた鼻孔は決意で震えていた。ヴァン・ヘルシングは彼の肩を叩いた。

「来なさい!」と彼は言った。「君は男だし、我々が必要としているのは男だ。君は私よりも、ジョン君よりも優れている」

アーサーが困惑した様子だったので、教授は親切に説明し続けた。

「お嬢さんの体調は悪い、とても悪い。彼女は血が必要で、血を手に入れなければ死んでしまう。ジョン君と私は相談して、私たちが輸血と呼んでいるもの──つまり、ある人の満杯の静脈から、その人のために脈付いている空の静脈に移すことを実行しようとしている。ジョンは私より若く強いので、彼の血を与えることになっていた」──ここでアーサーは僕の手を取り、無言で強く握った──「しかし今、君がここにいる。君は私たちのような頭脳派よりも適任だ。老いも若きもひっくるめてね。私たちの神経は君ほど落ち着いてないし、血液も鮮やかではないからね」

「もし、私が彼女のためにどれだけ喜んで死ぬか知っていれば、理解していただけるかと──」アーサーは彼に向かって言って、声を詰まらせながら言葉を止めた。

「いい子だ!」とヴァン・ヘルシングは言った。「そう遠くない将来、君は愛する彼女のためにすべてをやり遂げたことを幸せに思うだろう。今すぐ静かについてきなさい。施術の前に一度だけキスして良いが、その後は出て行くこと。私の合図で出て行ってくれ。奥様には何も言わずにいるんだよ。彼女に衝撃は禁物だ! この事に関する全てが衝撃となるだろう。さあ!」

僕たちはルーシーの部屋へ向かった。アーサーは指示により部屋の外に残った。ルーシーは首をかしげて僕たちを見たが、何も言わなかった。眠っていたわけではなく、ただ単に、話そうとするのも難しいほど弱っていたのだ。彼女の目のみが僕たちに語りかけていた。ヴァン・ヘルシングは自分の鞄からいくつかのものを取り出し、見えないように小さなテーブルの上に置いた。そして、彼は催眠剤を調合してベッドに近づき、元気よく言った。

「さあ、お嬢さん、これがあなたの薬だ。良い子で飲み干しなさい。ほら、飲み込みやすいように持ち上げてあげるよ。はい」

彼女は努力の末に飲むことに成功した。

薬が効くまでに時間がかかったのには驚かされた。実際、これが彼女の衰弱の度合いを示していた。瞼に眠りが浮かぶまで、その時間は果てしなく長く感じられた。しかし、ついに催眠剤はその効力を発揮し、彼女は深い眠りに落ちていった。教授は満足するとアーサーを部屋に呼び寄せ、コートを脱がせた。そして、彼は言った。

「私がテーブルを運んでいる間に、ちょっとだけキスをしておくといい。ジョン、手助けを頼む!」

そうして、アーサーが彼女の上に身をかがめる間、僕たちはどちらも見なかった。ヴァン・ヘルシングは僕の方を向いて言った。

「彼は若くて強く、血も澄んでいるので、繊維素を取り除く【訳注:defibrinate】必要はない」

そして、ヴァン・ヘルシングは素早く、しかし確実に、施術を行った。輸血が進むにつれて、ルーシーの頬に生命のようなものが戻り、青白くなっていくアーサーの顔には絶対的な喜びが輝いて見えた。少しすると僕は心配になった。アーサーは強い男だが、失血により苦しんで見えたからだ。アーサーをこれほどまでに弱らせた輸血が、ルーシーは部分的に回復しただけに終わったことから、ルーシーの体がどれほどひどい負担を受けていたか想像ついた。しかし教授は表情を変えず、時計を手に持ち、患者に目を向けたあと、アーサーを見つめた。僕は自分の心臓の鼓動が聞こえた。やがて彼は穏やかな声で言った。

「少しも動かないでくれ。これで充分だ。君は彼に付き添いなさい、私は彼女の世話をしよう」

すべてが終わったとき、アーサーがどれほど弱っているか見て取れた。傷の手当てをし、彼の腕をとって連れ出そうとしたが、ヴァン・ヘルシングは振り向かずにこう言った──頭の後ろに目があるようだ。

「私が思うに、勇敢な恋人くんは、今もう一回のキスに値するだろうね。すこし待ちなさい」

そして、作業を終えた彼は患者の頭を枕に下ろした。そのとき、彼女がいつも喉元に身につけている黒いベルベットの細いバンドが、彼女の恋人が贈った古いダイヤモンドのバックルで留められたまま、少し上にずれ、喉の赤い跡を見せた。アーサーはそれに気づかなかったが、ヴァン・ヘルシングが感情を押さえつける方法のひとつである、息を吸うような深いスーッという音が聞こえた。彼はその時何も言及せず、僕の方を向いて言った。

「さあ、勇敢な若い恋人殿を連れていき、ポートワインを飲ませ、しばらく横にさせなさい。そして、彼は家に帰って休み、たくさん寝て、たくさん食べて、自分が恋人に捧げたものを取り戻さなければならない。彼はここにいてはいけない。ちょっと待ちなさい! どうやら結果が気になるようだね。では、手術が成功したという事実をお伝えしよう。君は彼女の命を救ったのだから、できることは全て成したのだと思いながら、家に帰って安らかに休息をとりなさい。彼女が元気になったら、すべてを話すつもりだ。彼女は君のおこなったことにより、より一層君を愛するだろうね。さようなら」

アーサーが去った後、僕は部屋に戻った。ルーシーは静かに眠っていたが、強く息づき、胸が動くのに伴い掛け布団が動くのが見えた。枕元にはヴァン・ヘルシングが座り、じっと彼女を見つめていた。ベルベットのバンドが再び赤い痕を覆っていた。僕は小声で教授に尋ねた。

「彼女の喉にあるその印をどう考えますか」

「君はどう思うんだい」

「まだ検査していないので」

僕はそう答え、その場でバンドを緩めた。外頸静脈のすぐ上に、大きくはないが、健康そうとは言い難い穿刺が二箇所あった。病気の徴候はなかったが、怪我の縁は白く、まるで摩耗しているようだった。この傷が、もしくはそれが傷以外の何であれ、あの顕著な大量失血の原因ではないかとすぐに思いついたが、そんなことはありえないので、思いついたそばからその考えを捨てた。ルーシーが輸血前のように青白くなるまでに失ったはずの血液で、ベッド全体が緋色に濡れていただろうからだ。

「どうかね」と、ヴァン・ヘルシングは言った。

「どうでしょう」と僕は言った。「僕は何も診断できません」

教授は立ち上がり「今夜アムステルダムに帰らなければならない」と言った。「アムステルダムには私の欲しい本や物がある。一晩中ここに残り、彼女から目を離さないようにしなさい」

「世話人を付けますか」僕は尋ねた。

「私たち以上の世話人はいないね。一晩中見張りをして、彼女に充分な食事をとらせ、煩わせるものがないようにしてくれ。君は一晩中眠ってはならない。君も私も、後で寝ることとしよう。なるべく早く帰るようにする。それから始めよう」

「始める?」と僕は言った。「いったい何を言ってるんですか」

「今にわかる!」と彼は答えて外に飛び出た。彼はしばらくして戻ってきて、扉の内側に頭を入れて、警告のように人差し指を掲げて言った。

「覚えておけよ、彼女は君の責任だ。もし、彼女を放置して害が及んだら、この先、安眠できないぞ!」

スワード博士の日記(続き)

九月八日

僕はルーシーと一緒に一晩中起きていた。夕方にはアヘン剤の効果が切れたのか、彼女は自然に目を覚ましたが、施術前とはまるで別人のようだった。彼女が受けたひどい衰弱の跡は見てとれたが、気力も充実しており、幸せそうに活力に満ちていた。ウェステンラ夫人に、ヴァン・ヘルシング博士の指示で一晩一緒にいることになったと話すと、彼女はその提案を軽んじ、娘の体力が回復して元気になっていることを指摘した。しかし僕は、しっかりと主張し、長い徹夜のための準備をした。彼女のメイドが夜の支度をしたところで、僕は晩餐を済ませてベッドサイドに座った。彼女は何ら異議を唱えることなく、僕が目を留めるたびありがたそうに僕を見ていた。しばらくの間、彼女は眠りに沈みそうになっても、努力して意識を取り戻し、眠気を振り払っているようだった。このようなことが何度か繰り返された。時間が経つにつれて、より努力は顕著になり、眠っている時間はより短くなった。彼女が眠りたくないのは明らかだったので、僕はすぐにその話題に取り掛かった。

「眠りたくないんですか」

「ええ、怖くて」

「寝るのが怖いとは! どうしてですか。みんなが欲する行為なのに」

「あなたが私みたいだったらわかるのに──私のように眠りが恐怖の前触れだったら!」

「恐怖の前触れ! いったいどういう意味ですか」

「わからないわ、わからない。それがとても恐ろしいことなの。眠ると衰弱するから、自分が眠ると考えるだけで恐ろしくほどよ」

「でも、愛しのお嬢さん、今夜は寝てもいいんですよ。僕が見ているから大丈夫、何も起きません」

「そうね、あなたのことは信じられるわ!」

僕はこの機を捉えて、こう言った。

「悪い夢を見ていると確信できたら、すぐに起こすと約束します」

「そうしてくださる? 本当にそうしてくださるの? とても親切にしてくださるのね。それなら、眠りますね!」

そして、ほとんどその言葉とともに、彼女は安堵の深いため息をつき、背を寝台に沈めて眠った。

僕は一晩中、彼女のそばで見守っていた。彼女は決して動かず、深く静かで、生命を与え、健康をもたらす眠りを延々と続けていた。唇はわずかに開き、胸は振り子のように規則正しく上下していた。その顔には微笑みがあり、悪い夢に邪魔されず安らかな心でいることがうかがえた。

朝早くに彼女のメイドが来たので、僕は彼女を預けて家に帰った。色々と不安なことがあったのだ。僕はヴァン・ヘルシングとアーサーに短い電報を打って、施術の素晴らしい結果を知らせた。自分の仕事にもいろいろと滞りがあったので一日がかりで片付けた。暗くなった頃に、ゾウオファガス狂の患者の様子を伺った。昨日中静かにしていたとの良い報告を受けた。夕食中にアムステルダムのヴァン・ヘルシングから電報を受けた。今夜はヒリンガムにいた方がいい、つまりルーシーの手近にいた方がいい旨と、ヴァン・ヘルシングが夜行郵便列車で出発して早朝に合流する旨が書かれていた。

九月九日

ヒリンガムに着いたとき、僕はかなり疲れていた。この二日間、ほとんど一睡もできず、脳が疲労困憊しているような感覚を覚えはじめていた。ルーシーは元気に起きていた。彼女は僕と握手した時、僕の顔を鋭く見て言った。

「今日は寝ずの番はダメ。すごくお疲れのご様子だわ。私はまたすごく元気になったの。ほんとうよ。私があなたの寝ずの番をするべきね」

僕は反論しようとはせず、晩餐をとった。ルーシーが一緒に来てくれたので、僕は彼女の魅力的な存在感によって活気づき、素晴らしい食事を食べ、さらに素晴らしいポートワインを二杯ほど飲んだ。それからルーシーは僕を二階に連れて行き、心地よく暖炉が燃える、ルーシーの部屋の隣室に案内してくれた。

「ほら」と彼女は言った。「ここにお泊まりになって。この扉と私の扉を開けたままにしておくわ。ソファに横になってちょうだい。地平線上に患者がいる間は、あなたたちお医者様は誰もベッドに入ろうとは思わないでしょうから。何か欲しいものがあれば呼びますから、すぐに来てちょうだいね」

僕は承諾せざるを得なかった。なぜなら、僕はへとへとに疲れており、起きていようとしても体を起こしてられなかったからだろうからだ。そこで、何かあったら呼ぶようにとの約束を改めて取り付け、僕はソファに横たわり、意識を手放した。

ルーシー・ウェステンラの日記

九月九日

今夜はとても幸せな気分。ひどく弱っていた後に、考えたり動いたりできるようになるのは、鈍色の空から吹きつける長い東風のあとに、日の光を感じるようなものね。なぜか、アーサーをとても近くに感じる。彼のぬくもりを感じている気がするの。病気や衰弱は自分勝手なもので、意識や同情を自分自身だけに向けさせる。でも、健康や強靭さは、愛に自由を与えてくれて、思考や感情において愛がそこかしこに現れるようになるのね。私自身の想いのありかは知っているわ。アーサーもこれを知っていたらいいのに! 私の耳が起きていて疼くように、あなたの耳も眠りながら疼くのかしら。ああ、昨夜の睡眠は幸せだった! ご親切なスワード博士に見守られながら眠るわ。そして今夜は、彼がすぐそばにいるので、眠るのが怖くない。私に良くしてくれるみんなに感謝します! 神様、ありがとうございます! おやすみなさい、アーサー。

スワード博士の日記

九月十日

教授が僕の頭に手を置いたのを感じ、一瞬にして目が覚めた。速やかな起床は精神病院で学ぶことの一つだ。

「患者の様子はどうだったかな」

「僕が彼女から立ち去った時の様子、というより、彼女が僕から立ち去った時の様子、と言う感じですね」

「まあ、見てみよう」と彼は言った。そして僕たちは一緒に彼女の部屋へ入った。ブラインドが下りていたので、僕はそれをそっと上げに行った。一方のヴァン・ヘルシングは、猫のような柔らかい足取りでベッドに近づいた。僕がブラインドを上げて朝日が部屋に差し込むと、教授が息を吸い込むヒューという音が聞こえ、それが滅多にないことだと知っている僕の心臓に恐れが走った。僕がそちらに向かうと、彼は後ろに下がり、恐怖の叫びをあげた。

「Gott in Himmel!」【訳注:何てことだ!】

この叫び声は、彼の苦悩に満ちた顔によらずとも、十分に恐怖を伝えた。彼は手を上げてベッドを指差した。彼の鋼の顔は引きつり、灰白色になっていた。僕は膝が震え出すのを感じた。

ベッドに横たわったルーシーは一見気絶しているようだったが、以前にも増して蒼白で、やつれた顔をしていた。唇も白く、歯茎は歯から縮んでいるようだったが、これは病気が長引いた後の死体に時々見られる状態だった。ヴァン・ヘルシングは怒りのあまり足を踏み鳴らそうと足を上げたが、彼の人生により培われた本能と長年の習慣が働いて、その足をそっと下ろした。

「早く!」と彼は言った。「ブランデーを持ってくるんだ」

僕はダイニングルームへ飛んで行き、デカンタを持って戻った。彼はそれで哀れな白い唇を濡らし、僕たちは一緒に彼女の手のひらと手首と心臓をこすった。彼は彼女の心臓を確かめ、瞬間つづいた張り詰めた緊張の後、こう言った。

「まだ遅くない。弱々しいが鼓動はある。我々の施術は台無しだ。もう一度やり直さなければ。青年アーサー君はもういないのだから、今度は君を選ぶしかなさそうだね、ジョン君」

そう言いながら、彼は鞄に手を入れて輸血用の器具を出していた。僕はコートを脱いでシャツの袖をまくり上げた。今は、アヘン剤を使う可能性も必要もない。なので、僕たちは一刻の猶予もなく手術を始めた。しばらくして──自分の血を抜くのは、望んで行われたとしても恐ろしいことなので、短い時間には思えなかったが──ヴァン・ヘルシングが警告のために指を立てた。

「動くなよ」と彼は言った。「力を取り戻した彼女が目を覚ますかもしれないことが心配だ。彼女が目を覚ましたら、多くの危険が生じるだろう。予防策を講じることにしよう。モルヒネを皮下注射しよう」

彼は、素早く、手際よく、意図を実行に移した。ルーシーへの効果は悪くないものだった。昏睡が、薬物による睡眠にかすかに溶け込んでいくように思えたからだ。蒼ざめた頬や唇に、かすかな色が戻ってきたのを見たときは、自分が誇らしい気持ちになった。自分の生き血が愛する女性の血管に吸い込まれていくのを感じる意義は、体験した男にしか分からないだろう。

教授は僕を注意深く見ていた。

「これで良いだろう」と彼は言った。

「もうですか」僕は抗議した。「あなたはアートからもっと多くの血を奪ったのに」

それに対して彼は悲しげな笑みを浮かべながらこう答えた。

「彼は彼女の恋人であり婚約者だからね。君は彼女のために、そして他の人のために、たくさんの仕事をしなければならないから、これで充分だ」

施術の終了後、彼はルーシーに付き添い、僕は切開した部分を指圧した。僕は横になり、彼が診てくれるのを待った。気が遠くなり、少し気分が悪くなったからだ。やがて彼は僕の傷口に包帯を巻きつけ、僕にワインを飲ませるために階下に送り出した。僕が部屋を出ようとすると、彼は僕の後ろから追いかけ、半ば囁くようにこう言った。

「いいかな、このことは漏らすなよ。もし、あの若い恋人殿が以前のように突然現れたとしても、彼にも何も言ってはいけない。言えば、彼を怖がらせると同時に嫉妬させるだろう。何も言ってはいけない。わかったかね!」

僕が階下から戻ってくると、彼は僕を注意深く観察してから言った。

「あまり体調が悪化してないようだ。部屋に入ってソファに横になり、しばらく休んでから朝食をとり、私のところに来なさい」

僕は彼の命令に従った。彼の命令がいかに正しく、賢明であるかを知っていたからだ。僕は自分の役目を果たしたのだし、次の任務は体力を維持することだ。とても衰弱したようで、起こった出来事に対する驚きをも衰弱により失ってしまった。しかしながら、ソファで眠りつつ、どうしてあんなにルーシーの症状が後退したのか、どうしてあんなにも血を抜かれた様子なのに痕跡がないのか、何度も何度も不思議に思った。僕は夢の中でも不思議に思っていたのだろう。寝ても覚めても、彼女の喉に刺さった小さな穴と、その縁のボロボロで草臥れた様子に思いを馳せていたのだ──小さな穴にも関わらずだ。

ルーシーはその日よく眠り、目覚めたときには、前日ほどではないにせよ、かなり元気で力強くなっていた。ヴァン・ヘルシングは彼女を診察すると、片時も彼女のそばを離れるなと厳命し、僕に彼女を預けて散歩に出かけた。広間から彼の声が聞こえてきて、最寄りの電信局への道を尋ねていた。

ルーシーは僕と自由におしゃべりをし、まるで何にも気付いてないようだった。僕は彼女を楽しませ、興味を持たせるよう努めた。ルーシーの母親は、彼女に会いに来たときに何の変化にも気づかない様子で、僕に感謝するかのように言った。

「スワード博士、あなたがしてくださったことにはとても感謝しています。でも、無理はしないでください。顔色が悪いですよ。あなたは看護をしてくれる奥方が必要ね、そうでしょう!」

彼女がそう話すと、ルーシーは顔を赤らめたが、それも一瞬だけのことだった。彼女の哀れな衰えた血管は、このように不意に頭部へ血を流すことに、長くは耐えられなかったのだ。その反動で過剰に青ざめた彼女は、僕に懇願するような目を向けた。僕は微笑んで頷き、唇に指を置いた。彼女はため息とともに枕の中に身を沈めた。

数時間後、ヴァン・ヘルシングが戻って来て、今度は僕にこう言った。

「さあ、帰って、たくさん食べて、たくさん飲むんだ。元気になってくれ。今夜は私がここに残って、お嬢さんに付き添おう。君と私でこの症例を見守らなければならないし、他の誰にも知られてはならない。重大な理由があるのだ。いや、尋ねてはだめだ。最も可能性のないことでも、考えるのを恐れてはいけない。おやすみ」

広間で、二人のメイド達が僕のところにやってきて、自分達のうち両方もしくは片方が、ルーシー嬢の付き添いをしてはいけないかと尋ねた。彼女たちは許可するよう懇願した。ヴァン・ヘルシング博士もしくは僕が付き添うのが、ヴァン・ヘルシング博士の望みなのだと教えると、彼女たちは切実に《外国人の紳士》に取り次いでくれるよう頼んできた。その親切にとても感動した。僕が衰弱しているからか、ルーシーのための親切だからか、二人の献身的な態度に、今までに何度も何度も感じてきた女性の優しさに通じるものを感じたのだ。僕は遅い夕食に間に合うように病院に戻った。見回りをしたがすべて順調だった。そして、眠りの訪れを待つ間にこれを書いた。眠りはもうすぐ訪れるだろう。

九月十一日

今日の午後、ヒリンガムに行った。ヴァン・ヘルシングはとても陽気で、ルーシーもだいぶ良くなっていた。僕が到着して間もなく、外国から大きな小包が教授宛に届いた。彼は感激して──もちろん、これは僕の推測に過ぎないが──小包を開け、大きな白い花束を見せた。

「これはあなたのものですよ、ルーシー嬢」と彼は言った。

「私のために? まあ、ヴァン・ヘルシング博士!」

「その通り、でも遊ぶためではない。これは薬なのだ」ここでルーシーがしぶい顔をした。「でも、煎じて飲んだり、吐き気をもよおすようなものではないから、その魅力的な鼻に皺を寄せていじめる必要はないよ。さもなければ、アーサー君に、彼がとても愛している美しい顔が歪むのを見て、どんな苦痛を味わわなければならないか、知らせるはめになる。はは、可愛いお嬢さん、こう言うとその素敵な鼻がまた真っ直ぐになるのだね。この花は薬になるんだが、あなたはその方法を知らないだろう。窓際に置いて、あとはきれいな花輪を作って首に掛けておくと、よく眠れるようになるのだよ。その通り! これらは蓮の花のように悩みを忘れさせてくれる。この香りは、レテの水、もしくはコンキスタドールがフロリダで探し、そして見つけるのが遅すぎた、青春の泉のようなものなのだ」

彼が話している間、ルーシーは花を調べ、その匂いを嗅いでいた。そののち、彼女は花を投げ捨て、半ば笑い、半ばうんざりしながら言った。

「教授、私をからかっているのでしょう。このお花は普通のニンニクですのに」

僕が驚いたことに、ヴァン・ヘルシングは立ち上がり、鉄の顎を固め、ふさふさの眉を寄せて厳格に言い放った。

「軽んじてはならん! 私は決して冗談を言わないのだから! 私の全行動には厳格な目的があるのだから、妨げてはならない。自分のためだけでなく、他者のためにも気をつけなさい」

そして、哀れなルーシーが当たり前ながら怖がっているのを見て、彼はもっと優しく言った。

「お嬢さん、お嬢さん、私を怖がらないでくれ。私はあなたのためを思ってのことなのだから。そのありふれた花の中にも、あなたにとって役立つ性質がたくさんあるのだ。見てくれ、私自身が部屋に花を飾ろう。あなたが身につけるべき花輪も私が作る。むやみに話さないことだ! 詮索好きな質問をする人たちに話してはいけない。我々は従うことを覚えるべきだ。沈黙は従順の一部であり、従順はあなたを強く元気にして、あなたを待つ愛する人の腕の中に連れて行ってくれる。さあ、しばらくじっとしていなさい。一緒に来てくれ、ジョン君。部屋にニンニクを飾るのを手伝ってくれ。ハーレムから届いたものだ。そこでは友達のバンデルポールが一年中温室でハーブを育てている。昨日電報を打ったので、ここに届いたんだ」

僕たちは花を持って部屋に入った。教授の行動は明らかに奇妙で、今まで聞いたどの薬学書にも載っていない。まず、窓をしっかり閉めて、次に花を一掴みして、まるで空気が入るたびにニンニクの臭いをさせるためのように、窓枠全体にこすりつけた。そして、その花束で扉の桟を上下左右にこすり、暖炉の周りにも同じようにこすりつけた。僕にとってそれはすべて奇怪に思えた。やがて僕は言った。

「さて、教授、あなたがすることに理由があることは知っていますが、これには当惑しきりです。ここに懐疑論者がいないのは幸いだ。懐疑論者がいたら、あなたが悪霊を追い出すために何らかのまじないをしていると言うでしょうね」

「そうかもしれないがね!」

彼は落ち着きはらって答え、ルーシーの首にかける花輪を作りはじめた。

そして、ルーシーが夜の身支度をする間、僕たちは待った。彼女がベッドに入ると、彼がやってきて、彼女の首にニンニクの花輪を取り付けた。彼が彼女に言った最後の言葉は次のとおりだった。

「外さないように気をつけなさい。たとえ部屋の空気がこもって感じられても、今夜は窓や扉を開けないように」

「約束するわ」とルーシーは言った。「そして、お二方の優しさに何度も感謝します! こんなお友達に恵まれるなんて、私ったら何をしたのかしら」

待たせていた僕の軽馬車で家を離れると、ヴァン・ヘルシングは言った。

「今夜は私も安心して眠れるし、眠りたい──。二晩の旅行の間に多くの書籍調査を行い、翌日には多くの心労を受け、そして瞬きすることもなく寝ずの番の夜だった。明日は朝早くから私を呼びにきてくれ。一緒に可愛いお嬢さんに会いに行こう。私の《まじない》が効いて、もっともっと強くなっているだろう。ほっほっ!」

彼がとても自信に満ちているようだったので、二日前の夜に自信を持ったものの忌まわしい結果に終わったことを思い出し、畏れの念と漠然とした恐怖を覚えた。それを友人に話すのをためらったのは、僕の弱さなのだろう。しかし口にしなかったからこそなおさら、流さなかった涙のように、強く恐れを感じたのだ。

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