スワード博士の日記
十月三日
最後に記録してから起こったことを、覚えている限りすべて正確に書き留めておこう。些細なことでも思い出せることは忘れてはならない、落ち着いて進めていくこととする。
レンフィールドの部屋についた時、彼は体の左側を床につける形で、ぎらつく血の海に横たわっていた。彼を動かそうとしてすぐ、ひどい傷を負っていることがわかった。そこには、脱力状態であっても正常さを示すはずの、身体の部位間の動作目的の一致が、全くないようだった。顔面を見ると、床に叩きつけられたようなひどい傷跡があった──血だまりができたのも顔面の傷からだった。僕たちがその体をひっくり返している途中で、体のそばにひざまずいていた世話人は言った。
「先生、背骨が折れているようです。ほら、右腕と右足、それに顔の右全体が不随になってます」
どうしてそんなことが起こったのか、世話人は計り知れないほど困惑していた。彼はかなり戸惑っているようで、眉根を寄せてこう言った。
「二つのことが理解できないんです。自分の頭を床に叩きつけて、あのように自分の顔に傷をつけることはできる。エバーズフィールド精神病院で若い女性が、誰も手出しできないうちにやっているのを見たことがあります。また、不自然なねじれ方をしたら、ベッドから落ちて首を折るかも知れません。しかし、どうしてこの二つのことが同時に起こったのか、どうしても想像がつかないのです。背骨が折れていれば頭を打つことはできないし、ベッドから落ちる前から顔がああなっていたのであれば、その血痕があるはずです」
僕は彼に言った。
「ヴァン・ヘルシング博士のところに行って、すぐにここに来てくれるように頼んでくれ。一刻も早く彼が必要なんだ」
男は走り去り、数分後にガウンとスリッパを身に着けた教授が現れた。彼は地面に倒れたレンフィールドを見ると、しばらく目を凝らして彼を見つめ、それから僕のほうを向いた。彼は僕の目から僕の考えを読み取ったのか、明らかに世話人に聞こえないように、とても静かに言った。
「悲しい事故だ! 彼には注意深い経過観察と多くの手当が必要だ。私も君と一緒に付き添うが、先に服を着ることとする。ここに残っていてもらえれば、数分で再度ここに戻るよ」
患者は息が荒くなり、ひどい怪我をしたことは容易に察しがついた。ヴァン・ヘルシングは驚くべき速さで戻り、手術用の道具箱を携えてきた。彼は明らかに考えと決心を固めてきたようだった。患者を見る直前に僕にささやいたのだ。
「世話人を追い払え。手術が終わって意識が戻ったとき、いるのは我々だけでならなければ」
そこで僕はこう言った。
「シモンズ、今はこれで充分だろう。今できることはすべてやった。ヴァン・ヘルシング博士が手術するから、君は見回りに戻った方がいい。何か異常があったらすぐに知らせてくれ」
彼が引き下がったので、我々は患者の精密な検査に入った。顔の傷は表面的なものだ。本当の傷は頭蓋骨の陥没骨折で、運動皮質まで達している。教授は少し考えて、こう言った。
「内圧を下げて、できる限り正常な状態に戻さなければ。運動皮質全体が血による頭蓋内圧の影響を受けているようだ。血による内圧は急速に進むだろうから、すぐに頭蓋骨に穴を開けないと手遅れになるかもしれない」
彼が話していると、そっと扉をたたく音がした。行って開けてみると、廊下にはパジャマにスリッパ姿のアーサーとクインシーがいた。アーサーが話した。
「君の部下がヴァン・ヘルシング博士を呼び出して、事故のことを話すのが聞こえたんだ。それで私はクインシーを起こした、というより、彼が眠っていなかったので呼んだんだ。このところ、物事があまりにも早く、奇妙に進行するので、誰だって熟睡できないだろうね。明日の夜には、今までと同じように物事を見ることはできないだろうと考えている。私たちは過去を振り返り、そしてこれまでよりも少し前に進まなければならないだろう。入ってもいいかな」
僕はうなずき、二人が入るまで扉を開けておき、再び扉を閉めた。クインシーが患者の様子と状態を見て、床の上のひどい血溜りに気がつくと、そっと言った。
「何てこった! 何が起こったんだい。哀れな奴!」
僕は手短に説明し、手術のあとには少なくとも短期間は意識が回復するだろうと付け加えた。クインシーはすぐに歩いてベッドの端に座り、その横にゴダルミングが座った。僕たちは皆、忍耐強く見守った。
「待つことにしよう」とヴァン・ヘルシングは言った。「血栓を素早く完全に除去するために、穴を開けるのに最適な場所を特定するのに充分な時間だけ。大量出血が悪化しているのは明らかだからね」
待っている間の数分間は、恐ろしくゆっくりと過ぎていった。僕は気分が落ち込んだ。ヴァン・ヘルシングの表情からは、これから起こることへの恐怖や不安を感じていることが読み取れた。僕はレンフィールドが話すかもしれない言葉を恐れていた。考えるのが怖かった。しかし、以前読んだ、死の予告を聞いた人の物語のように、これから起こることの確信に満ちていた。哀れな男の呼吸は、不安定なあえぎとなっていた。毎瞬、目を開けて話し出しそうな気配をさせつつも、その後、長く息苦しそうな呼吸が続き、さらに強固な無意識状態に陥ってしまう。僕は病床と死には慣れていたが、この不安感はどんどん大きくなっていった。自分の心臓の鼓動が聞こえてきそうなほどで、こめかみを通って押し寄せる血液の音が、まるで金槌で叩くような音量で聞こえた。沈黙はついに耐え難いものになった。僕は仲間たちを次々に見た。彼らの火照った顔と湿った眉から、彼らが同じような拷問に耐えていることがわかった。思いもよらないときに恐ろしい鐘が力強く鳴り響くと伝えきいたような不安感が、僕たちを襲っていた。
そしてついに、患者が急速に衰弱し、いつ死んでもおかしくない状態だと明らかになった。僕は教授を見上げ、彼の目が僕の目をじっと見ているのを見つけた。彼は厳しい表情でこう言った。
「もう時間がない。彼の言葉は多くの人の命に値するかもしれない、この場に立っていてそう思った。誰かの魂がかかっているかもしれない! 耳の上に施術しよう」
彼はそれ以上は語らず、手術をした。しばらく呼吸は乱れたままであった。そして、患者の胸が裂けるのでは無いかというくらい長い呼吸があった。突然、患者の目が開き、荒々しい、虚空への凝視になった。この状態はしばらく続いたが、やがて喜ばしい驚きの表情に変わり、唇から安堵のため息が漏れた。彼は痙攣するように動きながら、こう言った。
「先生、静かにします。この拘束衣を脱がせるように言ってください。恐ろしい夢を見たので、体が弱り、動くことができません。私の顔はどうなったんでしょうか。腫れたような感じがするし、酷くうずくように痛むんです」
彼は振り向こうとしたが、その努力によって再び目がうるんできたようだったので、僕はそっと頭を元に戻した。それからヴァン・ヘルシングは静かで重々しい調子で言った。
「レンフィールドさん、その夢を教えてください」
その声を聞き、彼の切り裂かれた顔が輝いた。彼はこう言った。
「ヴァン・ヘルシング博士ですね。ここにいてくれてよかった。唇が乾いているので、水をください。そうしたら、お話できるか試してみます。私が夢見たのは」
彼は言葉を止めた。気を失いかけていた。僕は静かにクインシーに呼びかけた。
「ブランデーを──僕の書斎にあるから──早く!」
彼は飛んでいき、グラスとブランデーの入ったデカンタと水の入った水差しを持って戻ってきた。僕たちは乾いた唇を潤し、患者はすぐに立ち直った。しかし、哀れな彼の脳は、無意識下でも働いていたようで、意識が戻ったときに彼は、僕が決して忘れることのできない苦悩に満ちた混乱で、僕を鋭く見つめ、こう言ったのだ。
「自分を偽ってはいけませんね。あれは夢ではなく、すべて厳しい現実でした」
そして、彼の目は部屋を見回した。ベッドの端に辛抱強く座っている二人の人影を見つけると、彼はこう言った。
「たとえ自分が信じられなくとも、彼らから現実であることを知れます」
彼は一瞬だけ目を閉じた──痛みでも眠りでもなく、まるで全能力を駆使するために自発的に閉じたようだった。そして目を開くと、急いで、そして今まで見せたことのないほどの熱意を込めて、こう言った。
「早く、先生、早く。死にそうです! ほんの数分しか残されてない気がします。その後、私は再び死の世界に戻らなければなりません──もっと悪い場所かもしれません! またブランデーで唇を濡らしてください。死ぬ前に、あるいはこの傷ついた哀れな脳が死ぬ前に、伝えるべきことがあるのです。ありがとうございます! あなたが去って行ったあの夜、私を解放してほしいと懇願した時のことです。あの時、舌が縛られているような気がして話せませんでした。しかし、その点を除けば、今と同じように正気だったのです。あなたが去ってから、私は長い間絶望の淵にいました。何時間にも思えました。その後、突然の平穏が訪れました。私の脳は再び冷静になり、自分の状況がわかったのです。家の裏で犬が吠えるのは聞こえましたが、彼がいたのはそこではなかったんです!」
レンフィールドが話している間、ヴァン・ヘルシングは瞬きもせず、手を伸ばして僕の手を強く握りしめていた。ヴァン・ヘルシングは務めて冷静に、わずかにうなずいて小さな声でこう言った。
「続けなさい」
レンフィールドは話を進めた。
「彼は、今まで何度か見たことがある通り、霧に包まれて窓際までやってきました。しかし、その時の彼は幽霊ではなく、はっきりとした存在で、目は怒った時の人間のように険しかったのです。赤い口を開けて笑っていました。木立の向こうの犬が吠えているのをみようと彼が振り返ったとき、鋭い白い歯が月明かりに照らされて光っていました。彼がずっと前から望んでいたように、今回も建屋に入りたがっているのは分かっていたのですが、最初は室内に入るよう招きはしませんでした。すると、彼は私に約束しはじめたんです──言葉でなく、実行することで」
彼の話は、教授の一言で中断された。
「どうやってだね」
「約束を実現させることによって。太陽が輝いているときにハエを送り込んでいたのと同じようにです。鋼鉄とサファイアのように羽を輝かせた大きな太ったハエです。夜には、背中にドクロと交差した骨が描かれた大きな蛾が現れるのです」
ヴァン・ヘルシングは、無意識のうちに僕にささやきながら、レンフィールドにうなずいた。
「スズメガ科のAcherontia atropos【訳注:ヨーロッパメンガタスズメのこと。メンガタスズメ属は胸部にドクロ状の白い模様があり、一般にはdeath’s-head mothなどと呼ばれる。】──いわゆる《ドクロ蛾》だね!」
患者は言葉を止めることなく続けた。
「それから彼はこう囁き始めました。《ネズミだ、ネズミだ、ネズミだ! 何百、何千、何百万匹ものネズミ、その一匹一匹が生命なのだ。そして、それを食べる犬や猫も。全て生命だ! これらは全て赤い血であり、羽音を立てるただのハエでは及びようのない、何年もの生命が宿っているのだ!》私は彼を笑いました。何ができるのか見てみたかったからです。すると、彼の家の暗い木々の向こうで、犬が吠えました。彼は私を窓際に手招きしました。私が立ち上がって外を見ると、彼は両手を挙げました。言葉を使わずに呼びかけているようでした。暗い塊が草の上に、あたかも炎のように広がってきました。すると、彼は霧を左右に退けました。目が赤く燃えている何千匹ものネズミがいるのが見えました──小さいものの、彼によく似た目をしていました。彼が手をかざすと、ネズミ全体が止まりました。彼がこう言っているように思えました。《もしお前がひれ伏して私を崇拝するなら、これらネズミの命をすべて与えよう。これから未来永劫、もっとたくさん、もっと素晴らしい命を与えよう!》そして、血の色のような赤い雲が私の目の上を覆ったようでした。そして、自分が何をしているのかわからないうちに、窓枠を開けて、《大いなる君主よ、お入りください!》と言っていることに気がついたのです。ネズミは皆いなくなっていました。窓枠は一インチしか開いていないのに、彼は窓枠の隙間から部屋の中に滑り込んできました──ちょうど、月がほんのわずかな隙間から入ってきては、元と同じ大きさと輝きで私の前を照らし出すようにです」
声が弱々しくなったので、再びブランデーで唇を湿らせると、彼は話を続けた。その間にも彼の記憶は進んでいたようで、話がずいぶん飛んだ。話を戻そうとしたところ、ヴァン・ヘルシングが僕にささやいた。
「このまま続けさせなさい。邪魔をしない方がいい。彼は話を戻せないし、いったん思考の糸が切れてしまうと、まったく話を進ませられないかもしれない」
レンフィールドは次のように続けた。
「一日中、彼からの連絡を待っていましたが、彼は何も遣しませんでした、クロバエさえもです。月が出たときには、私はかなり腹を立てていました。窓が閉まっているのに、ノックもしないで窓から入ってきたときは、頭にきました。彼は私を嘲笑い、赤い目を輝かせた白い顔を霧から覗かせると、私が取るに足りない者であり、まるで彼こそがこの場所全体を所有しているかのように前進しました。そばを通り過ぎるとき、彼は以前と同じにおいさえしませんでした。私は彼を捕まえられませんでした。どういうわけか、ハーカー夫人が部屋に入ってきたときのことを考えました」
ベッドに座っていた二人は立ち上がってやって来て、レンフィールドには見えないように、しかし話がよく聞こえるように、レンフィールドの後ろに立った。二人とも黙っていたが、教授は身震いした。教授の顔はさらに険しくなっていた。レンフィールドは気づかずに続けた。
「今日の午後、ハーカー夫人が私に会いに来たとき、彼女はいつもと違っていました。まるで急須に湯を注いだ後の茶葉のようでした」
ここで僕たちは全員身じろぎしたが、誰も言葉を発しなかった。彼は続けた。
「彼女がここにいることに、彼女が話し出すまで気づきませんでした。以前と違っていたのです。私は顔色の悪い人は好きではなく、血色の良い人が好きなのですが、彼女の血はすべて流れ出てしまったようでした。その時は何とも思いませんでしたが、彼女が去ってから考え、彼が彼女の命を奪っていたのだと知り、腹が立ちました」
僕と同じように他の人も身震いしたのを感じたものの、そのほかは全員動かなかった。
「だから今夜彼が来た時、私は準備ができていました。霧が立ちこめるのを見て、それをしっかりとつかんだのです。狂人には不自然な力があると聞いたことがあったし、自分が狂人であることも──時折ではありますが──自覚していたので、自分の力を発揮しようと決心したのです。そして、彼もまた私の力を感じていました。なぜなら、彼は私と格闘するために霧の中から出てこなければならなかったからです。私は強く握り締めました。私は勝つつもりでいました。これ以上彼女の命を奪わせないつもりだったからです──彼の目を見るまでは。その目は私に焼き付くようで、私の力が抜けていきました。彼は私の手をすり抜け、私がしがみつこうとすると、私を持ち上げ、投げ捨てました。私の前に赤い雲が現れ、雷のような音がして、そして霧が扉の下から逃げ出したようでした」
彼の声はだんだん弱くなり、呼吸も息苦しそうになってきた。ヴァン・ヘルシングはとっさに立ち上がった。
「これで最悪の事態が判明した」と彼は言った。「あの男はここにおり、我々はその目的を知っている。まだ手遅れではないかもしれない。武器を用意しよう──先日の夜と同じように。だが時間をかけるな、一刻の猶予もない」
恐怖、いや、確信を言葉にする必要はなかった──僕たちは確信を共有していた。僕たちは皆急いで、伯爵の家に入ったときと同じものを自室から持ってきた。教授は自分の武器を用意して、僕たちが廊下で集合すると、それを力強く指差して言った。
「この不幸な任務が終わるまで、これらの武器が私から離れることはないだろう。友よ、賢明であれ。我々が相手にしているのは、ありふれた敵でない。しかしなんてことだ! なんてことだろう! あの愛しのミナ奥様が苦しむとは!」
彼は言葉を止めた。その声は途切れ途切れだった。僕の心が怒りに支配されていたのか、それとも恐怖に支配されていたのかは、今となっては分からない。
ハーカー夫妻の部屋の扉の前で、僕たちは立ち止まった。アートとクインシーがたじろぎ、クインシーが言った。
「彼女を脅かしやしないかな」
「その必要がある」と、ヴァン・ヘルシングは深刻そうに言った。「もし鍵がかかっていたら、壊さなければならない」
「彼女がひどく怖がらないかな。女性の部屋に侵入するってのは尋常じゃないぜ!」
ヴァン・ヘルシングは厳粛に言った。
「君はいつも正しい。しかし、これは生きるか死ぬかの問題だ。医者にとってはどの部屋も同じであり、そうでなくても今夜の私にとってすべて同じだ。ジョン君、私が取っ手を回して扉が開かなければ、肩で押してくれ。友人二人よ、君達もだ。いまだ!」
彼はそう言いながら取っ手を回したが、扉は開かなかった。僕たちが扉に向かって体当たりすると、音を立てて扉が開き、僕たちはほとんど部屋の中に倒れこんだ。教授は実際に倒れた。教授が四つん這いになって体を起こしている向こうの、部屋の中の光景を見て、僕は愕然とした。首の後ろの毛が逆立つのを感じ、心臓が止まりそうだった。
月がとても明るく、厚い黄色のブラインド越しに部屋は充分に照らされていた。窓際のベッドには、顔を紅潮させ、昏睡状態にもかかわらず荒い呼吸をしたジョナサン・ハーカーが横たわっていた。ベッドの端で窓の外を向いて跪いているのは、白い服を着た彼の妻だ。その傍らには黒服の長身痩躯の男が立っていた。顔はこちらを向いていなかったが、僕たちは皆、見た瞬間に誰なのか分かった──額の傷を含め、あらゆる点において伯爵でしかあり得なかった。左手でハーカー夫人の両手を握り、力を込めて彼女の腕で吊るようにしていた。右手では彼女の首の後ろを掴み、彼の胸に彼女の顔を押し付けていた。彼女の白い寝間着には血がにじみ、破れた服から見える男の裸の胸には、一筋の血がしたたっていた。二人の姿勢は、まるで子供が子猫にミルクを飲ませるために、子猫の鼻を無理やり皿に押しつけるようなひどいものだった。僕たちが部屋に飛び込むと、伯爵はその顔をこちらに向け、これまで聞いていた恐ろしい容貌が現れた。その目は悪魔めいた激情で赤く燃え上がり、白い鷲鼻にある大きな鼻孔は大きく開いて端が震え、血の滴るふっくらとした唇の奥にある白く鋭い歯は野獣のように噛み合わされていた。彼は犠牲者を、まるで高いところから投げ下ろすような方法でベッドの上に投げ出すと、振り返って僕たちに飛びかかった。しかしその時には、教授が立ち上がり、聖餅の入った封筒を彼に向かって掲げていた。伯爵は、哀れなルーシーが墓の外でしたように、突然立ち止まり、身を引いた。僕たちが十字架を掲げて前進すると、伯爵はますます後ずさりした。大きな黒い雲が空を横切り、月明かりが突然途絶えた。クインシーのマッチによりガス灯が立ち上がる頃には、かすかな煙以外何も見えなかった。僕たちが見ているなか、煙は扉の下にたなびいていった。扉は、開いたときの反動で、再び閉まっていたのだ。ヴァン・ヘルシング、アート、そして僕は、ハーカー夫人のもとへ進んだ。このとき彼女は息を吸い、その息を使って荒々しい、耳をつんざくような、絶望的な叫び声をあげた。今もまだその声が僕の耳に残っており、死ぬまで残るような気がしている。数秒の間、彼女は脱力した姿勢のまま、混乱した状態で横たわっていた。彼女の顔は蒼白で、その白さは唇や頬や顎に付着した血によって強調され、喉からは一筋の血が流れ、目は恐怖で狂わんばかりであった。それから彼女は、哀れな両手で顔を覆った。伯爵の恐ろしい握り跡が赤く白い肌に残っていた。その手の向こうから小さく悲痛な嘆きが聞こえてきて、先ほどの恐ろしい叫びは果てしない悲しみのほんの一端でしかないことを思い知らされた。ヴァン・ヘルシングは前に出て、彼女の体にそっと掛け布団をかけた。アートは一瞬絶望と共に彼女の顔を見た後、部屋を飛び出していった。ヴァン・ヘルシングが僕にささやいた。
「ジョナサンは、ヴァンパイアが作り出す昏睡状態に陥っている。哀れなミナ奥様には、自ら回復するまでのしばらくは何もしてやれない。彼を起こさなければ!」
ヴァン・ヘルシングはタオルの先を冷水に浸し、それでハーカーの顔をはたき始めた。彼の妻はその間、両手で顔を覆い、聞くのも気の毒なほどすすり泣いた。僕はブラインドを上げ、窓の外を見た。月明かりが燦々と外を照らしていた。見ていると、クインシー・モリスが芝生を走り、大きなイチイの木影に身を隠していたのが見えた。なぜそんなことをするのか不思議に思ったが、その瞬間、ハーカーが部分的に意識を取り戻したのに伴って上げた短い叫び声が聞こえたので、ベッドの方を向いた。その時、当然のことながら、ハーカーは驚きの表情を浮かべていた。彼は数秒間朦朧としていたが、一気に意識が戻ってきたようで、体を起こした。彼の妻はその素早い動きで気を取り直したようで、腕を伸ばして彼の方を向き、彼を抱きしめようとした。しかしすぐに、彼女は再び腕を自身に引き寄せ、肘を合わせて顔の前に手をかざし、彼女の下のベッドが揺れるまで震えた。
「いったいこれはどういうことなんですか」ハーカーは叫んだ。「スワード博士、ヴァン・ヘルシング博士、これはなんですか。何が起こったんですか。何が悪いんですか。ミナ、なあ、なんだっていうんだ。その血はどうしたんだ。ああ神よ! このようなことになるとは!」そして、膝をつき、両手を荒々しく打ち合わせた。「神よ、僕たちをお救いください! 彼女をお救いください! ああ、彼女をお救いください!」
彼は素早くベッドから飛び降りると、服を着始めた──即座に活動する必要性から、彼の中のすべての男性性が目を覚ましたのだ。
「何があったんですか。全部話してください!」彼は間髪入れずにそう叫んだ。「ヴァン・ヘルシング博士、あなたはミナを愛していますよね。彼女を救うために何かをしてください。まだ遠くには行っていないはずだ。僕が奴を探している間、彼女を守ってください!」
彼の妻は、恐怖と苦痛の中で、ハーカーに確実に危険が迫っていることを察知した。彼女は瞬時に自分の悲しみを忘れて、彼を抱きしめ、叫んだ。
「だめ! だめよ! ジョナサン、私を置いていかないで。あなたが危害を加えられるまでもなく、私は今夜もう充分苦しんだの。今晩は私のそばにいて。あなたを見守ってくれるこの人たちのそばにいて!」
話すにつれ彼女の表情は必死になった。そして、ハーカーが彼女に屈すると、彼女はベッドサイドに座るよう彼を引き寄せ、激しくしがみついた。
ヴァン・ヘルシングと僕は二人をなだめようとした。教授は小さな金の十字架を掲げて、素晴らしい冷静さでこう言った。
「恐れてはいけない。我々がここにいるのだから。そして、これが君たちの近くにある間、邪悪なものは近づくことができない。今夜は安全だ。落ち着いて、一緒に相談しなければならないね」
彼女は身震いしながら黙り込み、夫の胸に頭を押しつけた。彼女が頭を上げると、彼の白い寝巻きは、彼女の唇が触れたところと、彼女の首の薄く開いた傷から滴り落ちたところが血で染まっていた。それを見た瞬間、彼女は小さな泣き声を上げながら身を引き、息の詰まるような嗚咽の中でこうささやいた。
「汚ない、汚ない! もうこれ以上夫に触れたり、キスをしたりできないわ。ああ、今となっては私は彼の最悪の敵であり、恐れるべき者なのね」
これに対して、彼は毅然とした態度で語りかけた。
「くだらないことを言うなよ、ミナ。そんな言葉を聞くなんて情けない。君からそんなことを聞きたくないし、聞くこともないだろうね。もし僕の行為や意志によって僕たちの間が裂かれるとしたら、神は僕の定めをもってして僕を裁き、今この時よりももっと辛い苦しみで僕を罰するだろうさ!」
彼は腕を広げ、彼女を胸に抱いた。彼女はしばらくすすり泣くように彼の胸に横たわっていた。垂れた彼女の頭の上から、ハーカーは、鼻孔を震わし、潤んだ目を瞬かせながら僕たちを見た。彼の口は、鋼のように据わっていた。しばらくすると、彼女の嗚咽は徐々に落ち着き小さくなった。ハーカーは僕に向かって、神経を最大限に利用したかのように感じられるほど落ち着いた口調で言った。
「では、スワード博士、すべてをお話しください。大まかな事実は把握しているので、これまでのことを詳細に話してください」
僕は何が起こったかを正確に話し、彼は一見無感動に耳を傾けた。しかし、伯爵の冷酷な手が、彼の妻をあの恐ろしい、おぞましい姿勢で押さえ付け、彼の胸に開いた傷に口をつけさせたことを話すと、彼の鼻孔は引きつり、目は燃え上がった。ハーカー夫人の頭上で、ハーカーの憤怒した顔が痙攣している間も、ハーカーの両手は優しく愛情を込めて夫人の乱れた髪を撫でており、僕は興味を惹かれた。僕が話し終えたちょうどその時、クインシーとゴダルミングが扉をノックした。彼らは僕たちの呼びかけに応じて入ってきた。ヴァン・ヘルシングは僕を伺うように見た。二人が来たことを利用して、不幸な夫と妻の思考を少しでもお互いや自身から遠ざけよと伝えたいのだろうと僕は理解し、それに頷いた。ヴァン・ヘルシングは彼らに、何を見たか、何をしたか尋ねた。するとゴダルミング卿が答えた。
「通路にも、私たちの部屋にも、どこにも彼の姿は見えませんでした。書斎を確認すると、彼はそこにいたようだが、いなくなってしまっていました。しかし、彼は──」
彼は突然言葉を止め、ベッド上の哀れにしおれた姿に目をやった。ヴァン・ヘルシングが重々しく言った。
「続けなさい、アーサー君。これ以上何も隠しごとは必要ない。今の我々の希望は、すべてを知ることにある。自由に話してくれ!」
なので、アートは続けた。
「彼は書斎にわずかな間しかいなかったはずなのに、その時間をたいへん有効に使っていました。記録書類はすべて燃やされ、白い灰の中で青い炎が揺らめいていました。蓄音機のシリンダーも火の上に投げ出され、蝋が炎の糧となっていました」
ここで僕は口を挟んだ。
「金庫に写しがもう一部あってよかった!」
彼の表情は一瞬明るくなったが、再び曇り、こう続けた。
「そのあと、階下に駆け下りたものの、彼の姿は見えませんでした。レンフィールドの部屋を覗きました。そこに彼の痕跡はなかったのですが、しかし──!」
アーサーは再び言葉を止めた。
「続けてくれ」
ハーカーは掠れた声でそう言った。なのでアートは下を向き、舌で唇を湿らせてから、こう付け加えた。
「しかし、あの哀れな者は死んでいたのです」
ハーカー夫人は頭を上げ、僕たち各人を見ながら、厳粛にこう言った。
「神のご加護を!」
アートが何かを隠しているような気がしてならなかった。しかし、何か目的があるのだろうと思い、何も言わずにいた。ヴァン・ヘルシングはモリスに向き直り、こう尋ねた。
「そして、クインシー君は何か話すことがあるのかな」
「少しは」と彼は答えた。「いずれ重要になるかもしれねえが、今は何とも。伯爵が家を出るとき、どこに行くか知っておいた方がいいと思ったんだ。伯爵の姿は見えなかったが、レンフィールドの窓からコウモリが現れて、西に向かって羽ばたいていった。他の姿でカーファックスに戻るもんだと予想したが、明らかに他の隠れ家に向かったようだ。東の空が赤くなった。夜明けが近いから、今夜は戻ってこないだろうさ。明日、行動を起こすこととしよう!」
クインシーは最後の言葉を歯を食いしばって言った。数分だったと思うが、沈黙が続き、僕たちの心臓の鼓動が聞こえるようだった。その時、ヴァン・ヘルシングがハーカー夫人の頭にとても優しく手を置いて、こう言った。
「さて、ミナ奥様──哀れな、親愛なる、ミナ奥様──何が起こったのか、正確に教えてくれないかね。苦しめたくはないが、すべてを知る必要があるのだよ。今となっては、すべての仕事をこれまで以上に、素早く、正確に、そして真剣に行わなければならないからだ。すべてが終わる日が近いのだから、今こそが生きて学ぶ機会なのだ」
哀れな夫人は身震いした。夫に抱きつき、頭を下げて彼の胸に押し付ける様子から、神経が張りつめているのがわかった。そして、彼女が毅然と頭を上げて片手をヴァン・ヘルシングに差し出すと、ヴァン・ヘルシングはそれを手に取り、身をかがめて恭しく口づけし、しっかりと握った。もう片方の手は彼女の夫の手に握られており、夫はもう片腕で彼女を守るように包み込んでいた。彼女は、しばらく間を置いて自分の考えを整理した後、こう話し始めた。
「あなたが親切にもくださった睡眠薬を飲んだのですが、長い間、効き目がありませんでした。ますます目が覚めたようで、無数の恐ろしい空想が頭に押し寄せてきました──すべて死やヴァンパイアたちに関連しており、血や痛み、苦悩についても含まれていました」
彼女の夫が思わずうめき声を上げると、彼女は愛情を込めて言った。
「心配しないで、あなた。恐ろしいこの任務で私を助けるために、あなたは勇敢で強くなければならないの。この恐ろしい出来事を話すのがどんなに大変か知れば、どれほどあなたの助けが必要かわかるはず。さて、薬を効かせるためには、自分の意志で薬の働きを補助しなければならないと思い、思いきって眠りにつきました。それ以上何も覚えていないので、すぐに眠りについたのでしょう。ジョナサンが入ってきても目覚めず、次に起きたときには、彼は私のそばに横たわっていました。部屋には、以前気づいたのと同じように、薄く白い霧がかかっていました。皆さんが霧のことをご存知かどうか、今はわかりません。後でお見せする日記に記載しました。以前と同じ漠然とした恐怖を感じ、同様に何かの気配を感じました。ジョナサンを起こそうとしましたが、ぐっすり眠っていて、まるで私ではなく彼が睡眠薬を飲んだかのようでした。起こそうと試みましたが、起こすことはできませんでした。恐ろしくなって、辺りを見回しました。そのとき、私の心は打ちのめされました。ベッドの横に、まるで霧の中から抜け出してきたかのように──いや、霧が完全に消えていたので、むしろ霧が彼の姿になったかのように──黒ずくめの長身痩躯の男が立っていたのです。他の方々の描写から、すぐに彼だと認識できました。蝋のように白い顔です。高い鷲鼻の上に光が当たって白く細い線になっていました。開いた赤い唇と、その間に見える鋭い白い歯。そして、ウィトビーの聖マリア教会の窓の夕焼けに見たような赤い目。ジョナサンが叩いた額の赤い傷も知っているものでした。一瞬、心臓が止まるようでした。体がすくんでいなければ大声を出していたでしょう。彼はその間に、ジョナサンを指差しながら、鋭く押し殺したような囁きで話しました。
《静かに! もし音を立てたら、こいつを掴んで、目の前で脳みそをぶちまける》
私は驚愕し、何もできず、何も言えませんでした。嘲笑しながらも、彼は片手を私の肩に置き、もう片方の手で私を強く抱きしめ、私の喉をむき出しにさせて言いました。
《まず、私の労をねぎらうために、少しばかり新鮮な食事をしよう。静かにしていることだ。この血管が私の渇きを癒すのは、これが最初でも二度目でもないのだから!》
私は困惑しましたが、不思議なことに、彼を止めようとは思いませんでした。彼の手が犠牲者に触れるときに発動する、恐ろしい呪いの影響なのでしょう。そして、ああ、神よ、神よ、私に哀れみを! 彼は私の喉に、悪臭を放つ唇をつけたのです!」
彼女の夫は再びうめき声をあげた。彼女は彼の手をもっと強く握りしめ、まるで彼こそが傷ついた者であるかのような憐れみの目で彼を見つめ、そして続けた。
「力が抜けていくのを感じ、半ば卒倒しました。この恐ろしい出来事がいつまで続いたかはわかりません。でも、彼がその汚く、おぞましい、卑しい口を離すまでには、長い時間が経過していたに違いないと思われます。彼の口から鮮血が滴り落ちるのを見たのです!」
その記憶が彼女をしばらく圧倒したようで、彼女はうつむいた。夫の腕がなければそのまま倒れていただろう。彼女は懸命に気を取り直し、こう続けた。
「そして彼は嘲るようにこう言いました。
《他の者と同じように我が頭脳と戦おうというのか。他の連中が私を追い詰めるのを助けて、企みを挫くつもりなのか! 私の行く手を阻むとどうなるか、今思い知っただろう。奴らもすでに少しは知っているが、やがて完全に知ることになる。奴らは、気力をより卑近なことに使うべきだったな。奴らが私に対抗して知恵を絞っている間に──奴らが生まれる何百年も前に、国を指揮し、人民のために謀略を巡らし、人民のために戦った私に対抗してだ──彼らを制したのだ。そして、奴らの最も愛するお前は、今や私にとって、私が肉、私が血、私が近親であり、しばらくの間は私の肥沃な酒壷であり、後々には私の伴侶となり、私の助力となるであろう。お前たちは次々と報いを受けることとなる。なぜなら、奴らのうちに、お前の必要とするものを拒む者は一人もいないからだ。しかしながら、お前もまた、自分のしでかしたことの報いを受けなければ。私の邪魔をしたのだから、今度は私の呼びかけに応じるのだ。私が脳で《来でよ!》と言えば、陸や海を渡ってまで私の命令に従わなければならない。そのために、こうするのだ!》
そう言って彼は自らのシャツを引っ張り、長く鋭い爪で胸の血管を開いた。血が噴き出し始めると、彼は片手で私の両手を握り、もう片手で私の首を掴み、私の口を傷口に押し付け、私が窒息するか、もしくは飲み込まなければならないように──なんてこと! なんてこと! 私が何をしたというのでしょうか。このような宿命を負うに値することをしたでしょうか。これまでずっと、やさしく正しく日々を歩もうとしてきたのに。神よ、私に哀れみを! 死の危険より悪き状態にある哀れな魂を見守り、慈悲の心で私の大切な人たちを憐れんでください!」
そして、彼女は唇の汚れを落とすかのように、唇をこすり始めた。
彼女が恐ろしい話をしているうちに、東の空が徐々に明るくなり、すべてがはっきりと見えてきた。ハーカーはまだ動かず静かにしていたが、恐ろしい話が進むにつれ、彼の表情は灰色がかってきて、その色は朝の光の中でどんどん深まり、やがて夜明けの最初の赤い光の筋が射し込むと、逆光で暗くなった彼の体に、白くなった髪がくっきりと浮かび上がってきた。
僕たちは、再集合して行動の段取りを決めるまでの間、仲間内の誰か一人が、この不幸な二人が連絡を取れる範囲に留まることを取り決めた。
次のことだけは確かだ。太陽は今日、日々巡る太陽の周期の中で、この家以上に惨めな家の上に昇ることはないだろう。
ジョナサン・ハーカーの日記
十月三日
何かしていないと気が狂いそうなので、この日記を書いている。今は六時だ。三十分後に書斎に集まり、何か食べることになっている。ヴァン・ヘルシング博士とスワード博士の、食べずには全力を尽くせまいという意向による。今日は僕たちの全力が必要だ。筆を置いて考える勇気がないから、隙を見て書き続けなければ。大きなことも小さなことも、すべて書き留めなければならない。おそらく最終的には、些事が最も多くを語るだろう。それらが何を語ったとしても、ミナや僕が今日以上の苦境に行き着くことはないだろう。僕たちは信頼を失わず、希望を持たなければならない。哀れなミナは、たった今、頬に涙を伝わせながらも、困難と試練の中でこそ信仰が試されることを──だからこそ信じ続けねばならないことを、そして神は最後まで僕たちを助けてくださることを伝えてくれた。最後までとは! ああ神よ、どんな最後が待ち受けているのだろうか! とまれ働こう! 働かねば!
ヴァン・ヘルシング博士とスワード博士が哀れなレンフィールドに会って戻ってきたあと、これからどうすべきかを僕たちは真剣に検討した。スワード博士が言うには、彼とヴァン・ヘルシング博士が下の部屋に降りたとき、レンフィールドがぐったりと床に倒れていたそうだ。顔は傷だらけで潰れており、首の骨は折れていた。
スワード博士は通路で当直をしていた世話人に、何か聞こえたかどうか尋ねた。彼は、部屋の中で大きな声が聞こえたその時、座っていて、半ば居眠りをしていたことを告白した。レンフィールドが何度も大声で《神よ! 神よ! 神よ!》と叫び、そのあと倒れる音がしたので、部屋に入ると、医師たちが見たのと同じように床にうつぶせに倒れているのを発見したそうだ。《複数の声》だったか《一人の声》だったかとヴァン・ヘルシングが尋ねると、わからないと答えたそうだ。最初は二人いるように思えたが、部屋には誰もいなかったので一人だけだったかもしれないとのこと。《神》という言葉が患者によって語られたことは、必要あらば誓えるとのこと。
僕たちだけになったあと、スワード博士は、この問題に深入りしたくないと言った。検死解剖をどうするか考慮しなければなるまい、誰にも信じてもらえないような真実は述べられないからね、とも言った。世話人の証言をもとに、ベッドからの落下が原因で不慮の事故に遭い死亡したという証明書を出せるとのこと。検死官が要求すれば、正式な検死が行われ、必然的に同じ結果になるだろう、というのが彼の考えだった。
次の一手をどうするかという話になった時、僕たちが最初に決めたのはミナへ全幅の信頼を置くことだった。どんなことでも──どんなにつらいことでも──秘密にしてはいけない。この英断に彼女自身も同意した。彼女が勇敢でありながらも悲哀に満ち、絶望の淵にいる姿は哀れであった。
「隠し事をしてはいけません」と彼女は言った。「私たちはもう充分に秘密を経験したではありませんか! それに、この私がすでに耐え、今苦しんでいる以上の苦痛を与えられるものは、この世に存在しません! どんなことが起こっても、それは私にとって新しい希望や勇気になるに違いありません!」
ヴァン・ヘルシングは彼女が話しているのをじっと見つめていたが、突然、しかし静かにこう言った。
「しかし、親愛なるミナ奥様、あなたは怖くないのかね。あなたに何が起こるか、ではない。あなたに何かあったときに他の人に起こることが、だよ」
彼女が次のように答えた時、彼女の表情は固かったが、その目は殉教者の献身により輝いていた。
「いいえ! 私の心は決まっていますから!」
「どう決まってるのかな」
彼は優しく問いかけた。僕たちは皆、じっとしていた。なぜなら、各々がそれぞれの形で、彼女が何を言いたいのか漠然とした考えを持っていたからだ。彼女の答えは、まるで事実を述べているだけのような、率直で簡素なものだった。
「もし自分に──今後注意深く監視しますが──愛する人を傷つけるような兆候を見つけたら、私は死にます!」
「自殺するのでは無いですよね」とヴァン・ヘルシングは掠れた声で尋ねた。
「自殺いたします。自殺を行う苦痛と労力から救ってくれる、私を愛する友人がいない場合は!」
彼女は話しながら意味ありげにヴァン・ヘルシングを見た。彼は座っていたが、やがて立ち上がり、彼女の近くに行き、彼女の頭に手を置いて、厳粛に言った。
「我が子よ、あなたのためになるなら、手を下す者はいるだろうね。私自身、あなたを安楽死させることを、神に約束できる。それが最善の手であった場合には、今この時にでも。それを行うことが安全ならば! しかしだね、私の子よ──」
彼は一瞬息が詰まったように見え、大きな嗚咽が喉から上がってきた。しかし、それを飲み下して続けた。
「あなたと死の間に立ちふさがる者がここにいる。死んではならない。どのような手によっても死んではならないが、とりわけ自分の手によって死んではならん。その幸福な人生を汚した者が真に死ぬまでは、あなたは死んではならない。奴が生ける不死者であるときに、あなたが死ねば、彼と同じに作り変えられてしまう。生きなければならないのだ! 死は言葉に尽くせないほどの恵みに見えるだろうが、生きようともがき、努力しなければならない。たとえ苦痛の中にあっても、喜びの中にあっても、昼であっても夜であっても、安全であっても危険であっても、あなたは死と戦わなければならない。生きているあなたの魂に告ぐ。この大いなる試練が過ぎ去るまで、あなたは死なないようにしなくては──いや、死について考えないようにしなくてはならない」
哀れな彼女は死んだように白くなり、かつて見た流砂が潮の満ち引きで震えていたように、衝撃で震え上がった。僕たちは皆、何もできずに黙っていた。やがて彼女は落ち着きを取り戻し、彼の方を向いて、優しく、しかしとても悲しげに、手を差し出しながら言った。
「親愛なる友よ、約束しましょう。もし神が私を生かすというのなら、生きるよう努めます。もし神の御心に適うなら、この恐怖が過ぎ去るまで生き続けます」
彼女がとても善良で勇敢だったので、僕たちは皆、彼女のために努力し耐え忍ぼうという心が強まった。これからどうしたらよいかを話し合った。僕は彼女に、金庫の中のすべての書類と、今後使うかもしれないすべての書類や日記や蓄音機を所持し、これまでと同じように記録を残してほしいことを言い渡した。彼女は何かできることがあることに喜んでいた──《喜ぶ》という言葉を、これほど深刻な事態と結びつけて使えるのなら、だが。
常ながら、ヴァン・ヘルシングは他の誰よりも先のことを考え、我々の任務の厳密な手順を用意していた。
「カーファックスを訪問した後の会議で、そこにある土の箱を残置すると決めたのは、おそらく良かったのだろう。もし何かしていれば、伯爵は我々の目的を察知して、他の箱についての類似の企みを挫く手段を事前に講じたに違いないが、今の彼は我々の狙いを知らない。いや、それどころか、おそらく彼は、彼の隠れ家を浄化するような力を我々が持っており、昔のように棲家を使えないことも知らないのだ。箱の所在についての情報は、今やかなり把握できているのだし、ピカデリーの家を調べれば、最後の一箱まで突き止められるかもしれない。今日という日は我々のものであり、今日という日に我々の希望がある。今朝、我々の嘆きを照らした太陽は、その行く手において我々を守ってくれるのだ。日が沈むまで、あの怪物はいかなる形でも現在の姿を保たなければならない。彼は、土の箱という制限に閉じこもるしかないのだ。空気に溶け込むことも隙間から消えることもできない。彼が戸口を通り抜けるときは、人間のように戸を開けなければならない。今日こそ、我々は彼の隠れ家をすべて探し出し、それを浄化せねばならない。まだ捕らえて滅ぼせずとも、やがて確実に捕らえて滅ぼせるような場所に、追い込もうではないか」
会議中は行動を起こせないので、このままではミナの人生と幸せが掛かった数分、数十秒が過ぎ去ってしまうと思い、僕は立ち上がった。しかし、ヴァン・ヘルシングは警告するように片手を挙げた。
「ジョナサン君、そうではない」彼は言った。「この場合、君たち英国のことわざでいうところの、急がば回れというやつが当てはまるだろう。我々は皆、その時が来たら、迅速に行動しなければならない。しかし、ピカデリーのあの家にこそ、この状況を打開する鍵があるはずだ。伯爵は、多くの家を購入して所持しているだろう。彼はそれらの家の購入証書、鍵、その他様々なものを持っているであろう。また、書き物をした紙や小切手の帳簿も持っているだろう。彼にはどこかに持っていなければならない多くの持ち物がある。その持ち物を保管するのが、中心的都市であり、とても静かな街並みで、彼が四六時中表裏を行き来できる上に、交通量が非常に多くて誰も気づかない、ピカデリーのような場所でないはずはない。我々はピカデリーに行って家を捜索する。そして、その家にあるものを把握したときに、アーサー君の狩りの表現で言うところの《逃げ穴を土で塞ぐ》ことができ、古いキツネを追い詰められる──そうではないかな」
「それでは、すぐに向かいましょう」僕は叫んだ。「僕たちは、貴重な、とても貴重な時間を無駄にしています!」
教授は動かず、ただこう言った。
「そして、どうやってピカデリーのあの家に入るのかね」
「どんな方法でもいい!」僕は叫んだ。「必要なら押し入ろう」
「その場合、警察は一体どこにいて、何を言うのだろうね」
僕は動揺したが、教授が行動を引き延ばしたいのなら、それなりの理由があるのだろうと思い直した。なので、できる限り静かに言った。
「必要以上に待つ必要はないのでは。僕がどんな苦しみを感じているか、きっとご存知でしょう」
「我が子よ、知っているよ。君の苦悩を無駄に深めるようなことはしまい。でも考えてみてくれ、世間が動き出すまでに、我々に何ができるかを。世間が動き出して初めて、我々の出番となるのだ。考えに考えたのだが、一番簡単な方法が一番いいようだ。さて、我々は家に入りたいが、鍵がないのだったね」
僕はうなずいた。
「もしも君が、あの家の持ち主で、家に入れなかったとしたら。そして、その家に侵入する気持ちではないとしたら。どうするかね」
「信頼できる錠前屋に頼んで、鍵を開けさせますね」
「警察も干渉してくるのでは」
「いいえ! もしその人がちゃんと雇われていると知ったら、そんなことはしないでしょう」
「それなら」と、彼は鋭く僕を見据えた。「問題は、雇い主の意識と、その雇い主が良心の持ち主か悪心の持ち主かどうかを判断する警察官の信念だけだ。このような判断を行うとは、君たちの警察は本当に熱心な人たちであり、心を読むことにとても──とても!──長けているに違いない。ジョナサン君、ロンドンあるいは世界のどの都市でも、百軒の空き家の鍵を外したとしても、そうしたことが正しく行われるやり方で、そうしたことが正しく行われる時に行えば、誰も邪魔はしないだろうね。ロンドンでとても立派な家を所有していた紳士が、夏の数ヶ月間スイスに行き、家に鍵をかけたところ、泥棒が来て裏の窓を壊して中に入ってしまったという話を読んだことがある。そして、警察の目の前で、正面の雨戸を開けて、扉から出たり入ったりしたそうだ。そして、その家で競売を行い、それを宣伝し、大きな張り紙をしたそうだ。その日が来ると、その人の持っていたすべての品物を立派な競売人により売り払ったそうだ。そして、建設業者に行き、その家を売り、一定期間内にそれを取り壊してすべて撤去することを契約したそうだ。そして、警察やその他の機関も、彼にできる限りの手助けをした。その所有者がスイスの休暇から戻ってきたとき、彼の家があった場所には空っぽの空間があるだけだったのだよ。これはすべて《整然》【訳注:en regle】と行われたことだ。我々の仕事も《整然》としてなければならない。早い時間に行っても、まだ忙しくない警官に変だと目をつけられるだけだ。十時過ぎに行けば、大勢の人がいるだろう。我々が本当に家の主であれば、錠前屋を呼んでもおかしくない時間だ」
彼がいかに正しいかを理解せずにはいられなかったし、ミナのひどい絶望的な表情も和らいだ。このような良い助言には希望を見出すことができる。ヴァン・ヘルシングは続けた。
「その家に入れば、もっと手がかりが見つかるかもしれない。とにかく、何人かはそこに残って、残りはもっと土の箱がある他の場所──バモンシーとマイルスエンドを探せばいい」
ゴダルミング卿は立ち上がった。
「お役に立てます」と彼は言った。「馬と馬車を最も便利なところに置くように、部下に電報を打っておきます」
「なあ、いいかい」とモリスが言った。「馬に乗ろうと思ったときのために用意しておくのはいい考えだが、ウォルワースやマイルスエンドの道で、紋章をあしらったお前の洒落た馬車を使えば、目的に反して人目を引くと思うね。南や東に行くときは辻馬車に乗って、目的地の近くに待たせればいい」
「クインシー君の言うとおりだ!」と教授は言った。「彼は全く落ち着いているね。我々が向こうで成すのは困難なことだから、誰にも見て欲しくないのだよ」
ミナはあらゆることに興味を示したので、この緊急事態が、あの夜の恐ろしい体験を一時的にでも忘れさせるのに役立っているのだろうと、嬉しくなった。彼女はとても青白かった──いっそ不気味なほどだった。とても痩せていて、唇が引きつったようで、歯が多少目立っていた。彼女に無用な苦しみを与えないように、このことは述べなかった。しかし、伯爵が血を吸ったときに哀れなルーシーがどうなったかを考えると、血管の血が凍るようであった。歯が鋭くなる兆候はないが、まだ時間があまり経ってないので、恐怖を感じるべき時間がまだあるのだ。
取り組む順序や、戦力の配置について議論すると、新たな疑問の種が生まれた。しかしながら、ピカデリーに向かう前に、手近にある伯爵の隠れ家を破壊することで最終的に合意した。伯爵がすぐに察知した場合に備えて、破壊作業において彼に先んじるべきだ。彼が完璧に物質化されている状態、および最も脆弱な状態であれば、何か新しい手がかりが手に入るかもしれない。戦力の配置については、カーファックス訪問後、全員でピカデリーの家に入ろうという教授からの提案があった。それから医師二名と僕はピカデリーに残り、ゴダルミング卿とクインシーがウォルワースとマイルスエンドにある隠れ家を探し出して破壊するのだという。あり得そうにはないが、日中に伯爵がピカデリーに現れる可能性があり、そうであればその場で対処できるかもしれない、と教授は主張した。いずれにせよ、僕たちは力づくで彼を追えるかもしれない。この計画における、僕も同行するという点に関しては、強く反対した。ここに残ってミナを守るつもりだと主張し決心していたのだ。しかし、ミナは僕の反対を聞こうとはしなかった。彼女は、僕が役に立てる法的な問題があるかもしれず、トランシルヴァニアでの経験から理解できる手がかりが伯爵の書類の中にあるかもしれないと言った。そして現状では、伯爵の並外れた力に対処するために、持てる力のすべてが必要であるとも言った。ミナの決心は揺るがず、みんなで力を合わせることが最後の望みだというので、僕は降参せざるを得なかった。
「私自身については」と彼女は言った。「何も心配はしてないの。事態はこれ以上ないほど悪いのだから、何が起ころうとも、その中には希望や慰めがあるに違いないわ。ジョナサン、行ってらっしゃいな! それが神のお望みとあらば、私が一人でいようと、誰と一緒にいようと、変わらず神がお守り下さるでしょうし」
なので、僕は大声で叫んだ。
「すぐに行きましょう、時間がありません。伯爵は僕たちが思っているより早くピカデリーに来るかもしれません」
「それはない!」
ヴァン・ヘルシングが手を挙げて言った。
「どうしてですか」と僕は尋ねた。
「お忘れかな」彼はなんと微笑みながら言った
「昨夜、彼はたっぷりと食事をしたのだから、遅くまで寝ているだろう、ということを」
忘れるわけがない! まさか──忘れられない! 果たしてあの恐ろしい光景を忘れられるものがいるだろうか! ミナは勇敢な表情を保とうと努力したが、苦しみに耐え切れず、両手で顔を覆って震え、うめき声を上げた。ヴァン・ヘルシングは、彼女に恐ろしい体験を思い出させるつもりはなかった。彼は、知的作業の中で、彼女のことや、彼女が負わせられた役割を見失っていただけなのだ。自分が何を言ったか気付いたとき、彼は自らの軽率さに愕然とし、彼女を慰めようとした。
「ミナ奥様」と彼は言った。「愛しいミナ奥様。なんてことだ! あなたを敬う私が、こんな軽率なことを言ってしまったとは。この愚かな老いた唇と愚かな老いた頭には、そのような慈悲をかける価値はないが、忘れてくれないかね」
彼は彼女のそばに低くかがみながら話した。彼女は彼の手を取り、涙ながらに彼を見て、掠れた声で言った。
「いいえ、私は忘れません。覚えていることは良いことですから。それに、あなたとの思い出はとても素敵なものばかりですから、すべて一緒に受け止めます。さて、皆さんはそろそろ行かねばなりません。朝食ができたので、食べて体力をつけましょう」
朝食は、みんなにとって不思議な食事となった。僕たちは明るく励まし合おうとし、ミナは僕たちの中で一番陽気で明るかった。食事が終わると、ヴァン・ヘルシングは立ち上がって言った。
「さあ、親愛なる友よ、我々は恐ろしい冒険に出発するのだ。あの夜、初めて敵の隠れ家を訪ねた時のように、霊的な戦いや肉弾戦に備えた武装はしているかね」
僕たちは皆、彼を安心させた。
「それなら問題ない。さて、ミナ奥様、いかなる場合でも日没まではここが安全だ。そして、日没前に我々は戻る──ただし──いいや、戻ってみせる! しかし我々の出発前に、あなた個人を狙った攻撃に対する武装を確認させてほしい。あなたが階下に降りてから、あなたの部屋に、我々がよく知る物たちを置いて、彼が入ってこられないように準備した。今度は、あなた自身を守らせてもらいたいのだ。あなたの額に聖餅を、父と子と精霊の名に──」
恐ろしい叫び声が上がり、僕たちの心臓は凍りつきそうになった。ミナの額にその聖餅を置くと、それはまるで白熱した金属の破片のように、皮膚に焼き付いたのだ。哀れな彼女の脳は、彼女の神経がその痛みを受け取るのと同時に、この事態の重大性を理解した。この二つが彼女を圧倒し、彼女の張り詰めた神経が、あの恐ろしい叫び声にその想いを託したのだ。しかし、彼女の考えを伝える言葉もすぐに発言された。叫び声の反響が止まないうちに、絶望的な苦悩に打ちひしがられ、彼女は床に膝をついた。昔のらい病患者【訳注:原文は《leper》であり、ハンセン病患者の古い呼称。皮膚と神経に病変が現れることで知られる。ここでは《らい病》と訳しているが、《らい病》も《Leper》も、ハンセン病患者への社会的スティグマと結び付きが深い単語であることに注意】がマントを手繰り寄せて身を隠したように、美しい髪を顔に手繰り寄せて、泣き叫んだ。
「穢らわしい! 穢らわしい! 全能の神でさえ、私の穢れた肉体を拒絶するのね。この恥辱の印は、審判の日まで額に刻まれなければならないのね」
皆、しばし沈黙した。僕はどうしようもない悲痛な気持ちから、彼女のそばに身を投じ、腕を回して強く抱きしめた。数分間、僕たちの悲嘆に暮れた心臓は共に鼓動し、僕の周囲の友人たちは目を背けて静かに涙を流した。そして、ヴァン・ヘルシングはこちらを向いて重々しくこう述べた。あまりに重々しかったので、彼が何らかの形で啓示を受け、自分の範疇外の事柄を述べているのだと感じざるを得なかった。
「地上とそこに置かれた神の子供たちのすべての過ちは必ずや正されるべきだと、審判の日に神がお考えになるまでは、その印を負わなければならないかもしれない。ミナ奥様、愛しい奥様、あなたを愛する我々は、その赤い傷跡が、つまり神が過去について知っているのだという印が、額から消え去り、あなたの心のように額が綺麗になるように願う。我々が生きてさえいれば、我々にかかる苦難の重荷を取り除くことが正しいことだと神がお考えになったとき、その傷跡は確実に消えるだろうからだ。それまでは、御子が御心に従って十字架を背負ったように、我々も十字架を背負うのだ。我々は神の喜びの道具として選ばれ、鞭打ちや恥、涙や血、疑いや恐れなど、神と人間の間にあるすべての違いを乗り越えつつ、神の命へと近づいていくのかもしれない」
その言葉には希望があり、慰めがあり、諦めを生じさせるものだった。ミナも僕もそう感じ、同時に老人の片手を取り、かがんでキスをした。そして、何も言わずにひざまずき、手を取り合って、互いに誠実であろうと誓い合った。僕たち男性勢は、それぞれのやり方で、僕たちが愛した彼女の頭から悲しみのベールをはがすことを誓い、僕たちの目前の恐ろしい任務に助けと導きがあるように祈った。
そして、いよいよ出発の時が来た。僕はミナに別れを告げた。これは二人とも死ぬまで忘れることのできない別れとなった。そして、僕たちは出発した。
一つだけ決心したことがある。もし、ミナが最終的にヴァンパイアにならざるを得ないとわかったら、彼女が孤独にあの未知の恐ろしい土地に行くことはないだろうということだ。つまり、昔、一人のヴァンパイアが多数のヴァンパイアを生み出したのはこういうことなのだろう。神聖な土の上でしか彼らの醜い体が休めないのと同様、神聖な愛が彼らのおぞましい軍隊の徴兵隊長を務めるのだ。
僕たちは何の問題もなくカーファックスの家に入り、最初に侵入したときと同じ状態にあることを確認した。放置され、埃と腐敗に覆われたごく平凡な環境下に、僕たちが既に経験したような恐怖の根源が存在するとは信じがたいことだった。もし僕たちが決心していなかったら、そして僕たちを駆り立てる恐ろしい記憶がなかったら、任務を遂行できなかっただろう。この家には書類もなければ、家が使用された形跡もなかった。古い礼拝堂には大きな箱が、最後に見たときと同じように置かれていた。ヴァン・ヘルシング博士は、箱の前に立った僕たちに、厳粛な表情でこう言った。
「さて、我が友よ、我々はここでなすべき責務がある。聖なる記憶の詰まった神聖なこの土は、堕落した用途のために彼が遠い国から持ってきたものだ。彼は、この土が神聖なものであるからこそ、この土を選んだのだ。この土をさらに神聖なものにすることで、彼自身の武器で彼を打ち負かすことができる。人のために神聖にされた土を、今度は神のために聖なるものとするのだ」
話をしながら彼は鞄からネジ回しとレンチを取り出し、すぐに一つの箱の上部が開けられた。カビ臭い土のにおいがしたが、僕たちは気にせず教授の行動に集中した。彼は箱から聖餅の一部を取り出し、それを恭しく土の上に置き、蓋を閉めてネジを締めはじめたので、僕たちは彼の作業を手伝った。
僕たちは、大きな箱それぞれを同じように処理し、一見したところ最初の状態でありつつも、それぞれの箱の中に聖体の一部があるようにした。
僕たちが外に出て扉を閉めたとき、教授は厳粛にこう言った。
「すでに多くのことを成し遂げた。もし、他の全ての箱についても、かように成し遂げられるならば、今晩の夕焼けの光は、ミナ奥様の、象牙のように白く、何の汚れもない額を照らし出すことあろう!」
汽車に乗るために駅に向かう途中、芝生の上を通り過ぎると、精神病院の正面が見えた。僕が熱心に見ていると、自室の窓からミナが見えた。僕は彼女に手を振って、そこでの仕事がうまくいったことを伝えるために頷いた。すると、彼女もうなずいて理解を示した。最後に見たとき、彼女は手を振って別れを告げていた。僕たちは重い気持ちで駅に向かいプラットホームに到着し、ちょうど蒸気をふかしてきた列車に乗り込んだ。この日記は列車の中で書いた。
ピカデリー、十二時三十分
フェンチャーチ通りに着く直前、ゴダルミング卿が僕に言った。
「クインシーと私は鍵屋を探します。万一、何かあったら困るから、あなたは一緒に来ない方がいい。この状況なら、空き家に押し入っても悪いことにはならないでしょう。しかし、あなたは弁護士なので、社団法人法律協会からお咎めがあるかもしれません」
僕は、悪評の危険性を分かち合えないことに不満を唱えたが、彼は続けた。
「それに、あまり人数が多くない方が注意を引かないでしょう。私の肩書きがあれば、鍵屋も、もし来たとしたら警察官でも大丈夫です。ジャックと教授と一緒に、グリーンパークの家が見えるところで待機した方がいい。扉が開いて、鍵屋が立ち去ったのを確認できたら、みんなで来てください。私たちが見張りとなって、中にお入れします」
ヴァン・ヘルシングが「いい助言だ!」と言ったので、僕たちはそれ以上何も言わなかった。ゴダルミングとモリスは辻馬車で駆け出し、僕たちは別の馬車で後に続いた。僕たち一団はアーリントン通りの角で降り、グリーンパークに入った。僕たちの希望を担った家が、賑やかで立派な隣家の中に、荒れ果てた状態で重々しく静かにそびえ立っているのを見たとき、僕は胸の鼓動を高鳴らせた。僕たちは見晴らしのよいベンチに腰を下ろし、なるべく人目を引かないようにとタバコを吸い始めた。他の人たちが来るのを待ちながらも、鉛のような足取りで時が進んでいった。
やがて、四輪車が走ってくるのが見えた。そこからゴダルミング卿とモリスが悠然と降り、い草で編んだ道具籠を持った太った職人が御者席から降りた。モリスが辻馬車の御者に金を払うと、御者は帽子に触れてから走り去った。二人は一緒に階段を上がり、ゴダルミング卿がやって欲しいことを指示した。職人はのんびりとコートを脱いで手すりの突起にかけ、ちょうど歩いてきた警官に何かを言った。警察官は納得してうなずき、ひざまずいた職人は自分の鞄をそばに置いた。そして、その鞄の中を探し、道具を取り出して、自分の横に整然と並べた。そして立ち上がり、鍵穴を覗き込み、息を吹きかけ、雇い主の方を向いて何か言った。ゴダルミング卿が微笑むと、男は大きな鍵束を取り出し、そのうちの一本を選ぶと、あたかも自分の感覚を探るかのように、鍵を差し込んで探りはじめた。しばらく探ったあと、二つ目、三つ目を試した。すると突然、彼が少し押しただけで扉が開き、彼と他の二人は広間に入った。僕たちはじっと座っていた。僕のタバコは激しく燃えたが、ヴァン・ヘルシングのものはすっかり冷たくなってしまっていた。僕たちが辛抱強く待っていると、職人が鞄を持って出てきた。そして彼は、扉が少し開くように膝で支えながら、鍵を合わせた。この鍵をゴダルミング卿に渡すと、ゴダルミング卿は財布を取り出して何か渡した。男は帽子に触れ、鞄を取り、コートを羽織って去っていった。この一部始終を誰も気に留めなかった。
その男がすっかりいなくなったところで、僕たち三人は通りを渡り、扉をノックした。すぐにクインシー・モリスが扉を開け、その横にゴダルミング卿が立ってタバコに火をつけていた。
「この場所はとても不潔な臭いがする」
僕たちが中に入ると、ゴダルミング卿がそう言った。確かに不潔な臭いがする──カーファックスの古い礼拝堂と同じ臭いだ──そして、これまでの経験から、伯爵がこの場所をかなり頻繁に使っていたことは明白だった。僕たちは探索するために家の中を移動したが、攻撃に備えて全員一緒に行動した。強くて狡猾な敵が相手だとわかっていたし、伯爵が家の中にいないとも限らないからであった。広間の奥にあるダイニングルームには、土の入った箱が八つあった。九つの箱のうち、八つしかない! 僕たちの仕事はまだ終わらない。足りない箱を見つけるまでは終わることはないのだ。狭い石畳の庭に面した窓の雨戸を開けると、そこには小さな家の正面を模した厩舎の、真っ白な壁が見受けられた。厩舎には窓がないので、覗かれる心配はない。僕たちは箱を調べるのに時間をかけなかった。持ってきた道具を使って、一箱ずつ開けて、古い礼拝堂で他の箱を処理したように処理した。伯爵がこの家にいないことは明らかだったので、僕たちは伯爵の持ち物を探した。
地下室から屋根裏部屋まで、他の部屋を一通り見た後、ダイニングルームに伯爵の持ち物と思われるものがあるという結論に達した僕たちは、それらを細かく調べていった。それらは、ダイニングルームの大きなテーブルの上に整然と並べられていた。ピリカリー家の権利証の大きな束。マイルスエンドとバモンシーの家の購入証書。覚書用紙、封筒、ペンとインクがあった。すべて薄い包装紙で覆われていて、埃から守られていた。他にも、洋服ブラシ、ブラシと櫛、水差しと洗面器があった──洗面器には血で赤く染まった汚れた水があった。最後に、大小さまざまな鍵の山があったが、おそらく他の家のものだろう。僕たちがこの最後の発見物を調べると、ゴダルミング卿とクインシー・モリスは東と南の家のさまざまな住所を正確に覚書して、大きな鍵の束を持ち、これらの場所の箱を破壊するために出発した。残った僕たちは、できる限りの忍耐力をもって、彼らの帰還を──あるいは伯爵の到来を待っているのだ。
スワード博士の日記
十月三日
ゴダルミングとクインシー・モリスが来るのを待っている時間はとても長く感じられた。教授は僕たちの心を、考えさせることで常に活性化させようとした。教授が時折ハーカーを横目で見るので、教授の目的を理解できた。哀れなハーカーは、見るもぞっとするような惨めさに打ちひしがれている。昨夜の彼は、率直で幸せそうな男で、力強く若々しい顔をしており、元気一杯で、髪は濃い茶色だった。現在、彼は痩せこけた老人のようで、白い髪が、くぼんだ燃えるような目と、悲しみが刻まれた顔の皺とよく合っている。しかし、彼のエネルギーはまだ衰えておらず、まるで生ける炎のようだ。これは彼にとっては救いかもしれない。うまくいけば、絶望的な時期を乗り越え、ある意味での人生の現実に再び目覚めることになるだろう。哀れなやつだ、僕の抱える問題も充分ひどいと思ったが、彼ときたら──! 教授はこのことを充分承知しており、彼の心を活発にするために最善を尽くしている。教授が話したのは、このような状況下では引き込まれるような、興味深い話であった。僕が覚えている限りでは、次のような内容だ。
「この怪物に関連するすべての論文が手元に届いてから、何度も何度も読み返した。調べれば調べるほど、完全に抹殺する必要を強く感じられた。彼の力だけでなく、彼の知識も、強力になっている兆しが見受けられる。ブダペストの友人アルミニウスの研究から学べたところによると、彼は生前きわめて立派な人物であった。兵士であり、政治家であり、錬金術師だった──錬金術は、彼の時代の科学的知識の最高峰だ。彼は優れた頭脳と比類なき学識、そして恐れや後悔を知らない心を持っていた。彼はあえてショロマンツァに出席した。当時の知識分野で彼が論考を書かなかったものはなかった。彼の場合、頭脳力は肉体の死後も残ったが、残った記憶は完全ではなかったようだ。彼は頭脳のいくつかの能力において、子供のようであり続けている。しかし成長しており、当初は未発達だったものが、今では大人並になっている。彼は実験をしていて、さらには実験をうまくやっている。もし我々が彼の道を阻まなければ、彼は──もし我々が失敗したら──生ける物の新秩序の父あるいは促進者となっていただろう。その生物は、生ではなく死の道を進むこととなっただろう」
ハーカーは呻きながら言った。
「そして、それらすべてが僕の愛しい人に敵対しているんですね! で、彼はどのような実験をしているんですか。それを知れば、打ち負かすのに役立つかもしれない!」
「彼はここに来てからずっと、ゆっくりと、しかし確実に、その力を試している。彼の大きな未発達の脳が働いているのだ。我々にとっては未発達の脳だ。もし彼が最初に、ある種のことを試みたなら、とっくに我々の手には負えなくなっていただろう。しかし、彼は成功するつもりでいる。そして、これから何世紀も時間をかけることのできる人間は、待つことも、ゆっくりとことを進めることもできるのだ。《ゆっくり急げ》【訳注:Festina Lente】が彼のモットーかもしれない」
「僕には理解できません」とハーカーは疲れたように言った。「どうか、もっとわかりやすく話してください! おそらく悲しみと悩みが僕の頭を鈍らせてるんです」
教授は彼の肩に優しく手を置きながら話した。
「そうだね、我が子よ。簡潔に言おう。どうやって近日、この怪物がひっそりと実験により知識を増やしているのかわかるかね。ゾウオファガス狂の患者を利用して、どうやってジョン君の家に入り込んだか、わかるかね。ヴァンパイアは、一度招かれた後はいかようにでも家に入れるが、最初は入居者に招かれたときにしか入れないのだ。しかし、これは彼のおこなった最も重要な実験ではない。これらの大きな箱は、最初はすべて他者によって運搬されていた。彼は当時、そのやり方しか知らなかったのだ。しかし、その間に彼の優れた未発達の脳が成長し、自分で箱を動かしてはどうかと考えるようになった。そこで、運搬を手伝い始めた。そして大丈夫だとわかると、一人で全ての箱を動かそうとした。このようにして彼は進歩して、その上で墓の土を散在させたので、彼以外の誰もそれらがどこに隠されているかを知らない。箱を地中深くに埋めるつもりかもしれない。さすれば、彼には好都合なことに、夜間にだけ、あるいは彼が姿を変えられるような時にだけ、箱を使うことができる。更には、埋められてしまえば誰にも隠し場所がわからないのだ! しかし我が子よ、絶望してはならない。この知識を彼が知ったのは、あまりにも遅すぎたのだ! 既に彼の隠れ家は一軒を除いて浄化されており、日没前には全てが浄化されるだろう。そうなれば、彼が隠れられる場所がなくなる。私は今朝、確実さを求めて出発を遅らせた。彼よりも我々の方が危機的状況にあるのだから、彼よりも我々の方が注意深くあるべきではないかな。すべて順調なら、私の時計ではあと一時間で、アーサー君とクインシーがこちらに向かうところとなる。今日という日は我々のものだ。ゆっくりでもいいから確実に進み、機を逃さないようにしなければならない。ほら! 留守の者たちが帰れば、我々は五人になるだろう」
彼が話している最中に、広間の扉をノックする音が響き、僕たちは驚いた。電報を持ってきた少年の二連ノック【訳注:Double postman knock。当時の郵便配達人が通例2回続けてドアベルを鳴らしたり、ノックをしたことから。】だ。僕たちは一斉に広間に移動した。ヴァン・ヘルシングは静かにするようにと手を挙げて合図すると、扉の前に進んで扉を開けた。少年は郵便物を手渡した。教授は再び扉を閉め、差出人を見た後、それを開いて音読した。
「Dニ キヲツケヨ。イマ ジュウニジ ヨンジュウゴフン カーファックス ヨリ イソギ ミナミニ ムカッタ。マワリミチ デ アナタニ アイニイク ヨウダ。ミナ」
しばらく間をおいて、ジョナサン・ハーカーが声を上げた。
「さあ、神に感謝しよう、僕たちはじきに奴に会えるのだから!」
ヴァン・ヘルシングはすぐに彼の方を向いて言った。
「神は、自らの道と時に従って行動なさる。今はまだ恐れるべきでも、喜ぶべきでもない。今、我々が望むことは、我々の破滅に繋がるかもしれないのだから」
「今の僕は何も気にしませんよ――」ハーカーは熱く答えた。「――あの怪物をこの世から消し去ること以外は。そのためなら魂を売ってもいい!」
「黙れ、黙りなさい、我が子よ!」ヴァン・ヘルシングは言った。「神はこのような形で魂を買ったりはしないし、悪魔は魂を買うだろうが信用できない。神は慈悲深く、公正であり、君の苦しみと、親愛なるミナ奥様への君の献身を知っている。もし彼女が君の乱暴な言葉を聞いたら、彼女の苦しみはどれほど増すか考えてみなさい。我々は皆、この大義のために献身しており、今日でそれも終わるのだから、恐れてはならない。今こそ行動を起こす時だ。今日、このヴァンパイアは人間の能力の限りにおいてしか力を使えない。そして、日が暮れるまで彼は変身できない。彼が到着するには時間がかかる──ほら、今はもう一時二十分だ──彼は決してそんなに早くないから、ここに来るにはまだまだ時間がかかるだろう。我々が望むべきは、アーサー閣下とクインシーが先にここに到着することだ」
ハーカー夫人からの電報を受け取ってから約三十分後、広間の扉に静かだがはっきりとしたノックがあった。何千人もの紳士が毎時しているような普通のノックだったが、教授と僕の心臓は大きく鼓動した。僕たちは互いに顔を見合わせ、一緒に広間に行った。僕たちはそれぞれ、左手に霊的なものに対する武器、右手に人間に対する武器を持って、それを使えるように備えていた。ヴァン・ヘルシングは掛け金を外し、扉を半開きにしたまま、両手を構えて後ろに下がった。ゴダルミング卿とクインシー・モリスが扉のすぐそばの階段にいるのをみたとき、僕たちの心の底からの喜びは表情に表れていただろう。二人はすぐに中に入って扉を閉め、ゴダルミング卿は広間を進みながらこう言った。
「もう大丈夫。私たちは両方の場所を見つけました。それぞれ六つの箱があり、それらをすべて破壊したのです!」
「破壊とは?」と教授は尋ねた。
「奴にとって使い物にならないということですよ!」
僕たちは一分ほど黙ったが、クインシーが言った。
「この場で待つしかないだろう。しかし五時までに奴が現れなかったら、ここを出るほかない。日没後にハーカー婦人を一人にするのはよくないからな」
「じき来るだろう」手帳を見ていたヴァン・ヘルシングは、こう言った。「いいかね。奥様の電報によると、彼はカーファックスから南下しており、つまり川を渡ろうとしている。彼は潮止まり【訳注:slack of tide。ここでは憩流ではなく、満潮および干潮のことを指していると思われる】のときしか渡れず、つまり今現在から一時前でなければ渡れないのだ。南へ行ったということは、我々にとって意味がある。つまり、彼はまだ疑いを抱いているだけなのだ。彼はまずカーファックスから、邪魔が入ったと最も考え難い場所へと向かったのだ。君たちがバモンシーにいたのは、彼が到着する少し前だったはずだ。まだここにいないということは、彼は次にマイルエンドに行ったのだろう。そうすると、何らかの方法で川を渡らなければならないので、時間を取られただろう。間違いなく、我々はもう長くは待たされまい。機会を逸しないよう、何か作戦を立てなければならない。静かに、もう時間がない。武器を全部持て! 準備しろ!」
広間の扉の錠に鍵をそっと差し込む音を僕たちは聞き、教授は警告の手を挙げながら話した。このようなときでさえ、人を統制する精神が台頭する様子に感嘆せざるを得なかった。世界各地での狩猟や冒険では、常にクインシー・モリスが作戦を立て、僕とアーサーは彼に従うのが常だった。そのとき、その古い習慣が本能的によみがえったようだった。クインシーは部屋を素早く見回すと、すぐに僕たちの攻撃計画を立て、何も言わずに身振りで僕たちを所定の位置に配置した。ヴァン・ヘルシング、ハーカー、僕は扉のすぐ後ろにいて、扉が開いたときに教授が扉を守り、僕とハーカーは侵入者と扉の間に入れるようにした。ゴダルミングは後ろで、クインシーは前で、窓の前に移動できる死角に立った。僕たちは、悪夢のような遅さで数秒が過ぎていく緊張の中で待った。ゆっくりとした慎重な足音が廊下をすすむのが聞こえた。伯爵は明らかに何らかの急襲に備えていた──少なくとも、彼は急襲を予期していた。
突然、彼は部屋に飛び込み、僕たちの誰かが手を出して阻止する前に、僕たちの横を通り抜けた。その動きには豹のような、人間離れしたものがあったので、彼が出現した衝撃から我にかえった。最初に行動したのはハーカーであり、素早い動きで家の正面部屋に通じる扉の前に身を投げた。伯爵は僕たちを見て、唸るような表情を見せ、長く尖った犬歯を見せた。しかし、邪悪な笑みはすぐに、軽蔑を込めたライオンのように冷たい視線に変わった。僕たちが一斉に彼の前に進み出ると、彼は再び表情を変えた。僕はこのときでさえ、どうしたらいいのかと考えていたのだから、もっときちんとした攻撃計画がないのは残念だった。僕はこれらの武器が役に立つかどうかわからなかった。ハーカーは明らかに自らの試みでこの疑念を晴らすつもりだったようで、大きなククリナイフを構えて、激しく、突然、彼に切りかかった。その一撃は強力なものだったが、伯爵は悪魔的な素早さで飛び避けた。もう一秒遅ければ、その鋭い刃は心臓を突き破っていただろう。その刃はコートの布を切り裂くにとどまり、その大きな切れ込みから紙幣の束と金塊が流れ落ちた。伯爵の憤怒の表情に一瞬ハーカーの身を案じたのだが、ハーカーは再び恐ろしいナイフを高々と振り上げ、もう一振りしようとしていた。僕は防衛本能に駆られ、左手に十字架と聖餅を持って、前進した。自らの腕に強い力がみなぎるのを感じた。なので、僕たち各人が自発的に行った同様の動作の前に、怪物が後ずさるのを見ても驚かなかった。そのとき伯爵の顔に浮かんでいた、憎悪および混乱した悪意の表情──激怒および地獄のような憤怒の表情は、筆舌に尽くしがたいものだった。彼の蝋のような顔色は、燃える目との対比によって緑がかった黄色になった。額の赤い傷は、蒼白い肌の上でまるで脈打つようだった。次の瞬間、彼はしなやかな動きでハーカーの腕の下をくぐり、その隙に床に落ちていた金を掴んで部屋を駆け抜け、窓に向かって身を投じた。ガラス片が落ちるときの音ときらめきの中、彼は板石が敷かれた場所に転落した。ガラスが割れる音に紛れて、金貨の一部が板石の上に落ちたときの《チリン》という音が聞こえた。
僕たちが駆け寄ると、彼が無傷で地面から飛び起きるのが見えた。彼は階段を駆け上がり、石畳の敷かれた庭を横切り、厩舎の扉を押し開けた。そこで彼は振り返って、僕たちに話しかけた。
「私を謀ったな。お前たち──青白い顔を並べて、まるで肉屋の羊のようだ。お前たちそれぞれが後悔することになるだろう! 休息できる場所を全て奪ったと思っているのだろうが、まだあるのだ。私の復讐はまだ始まったばかりだ! 私は何世紀にもわたって復讐を続けてきたのだし、時間は私の味方だ。お前らが愛する娘たちは既に私のものだ。そして娘たちを通じて、お前らや他の者たちも私のものとなる──私の命令を聞き、私が食事をしたい時には私のジャッカルと化すような、私の獣たちとなるのだ。ハッ!」
彼は侮蔑的な笑みを浮かべながら、素早く扉を通り抜けた。扉を締めるとき、錆びた閂がきしむ音がした。その向こうの扉が開き、閉じた。厩舎の中を通って彼の後を追うのは難しいことを悟り、僕たちは広間の方に移動した。僕たちの中で最初に言葉を発したのは教授だった。
「我々は多くのことを学んだ! 勇ましい言葉とは裏腹に、彼は我々を恐れている。彼は時間を恐れており、彼は欠乏を恐れている! そうでなければ、なぜこんなに急ぐのだろうか。聞き違いでなければ、彼の口ぶりが裏目に出たのだ。なぜ床の金を取ったのだろうか。君たちは早く追いなさい。君たちは野獣の狩人であり、それを理解している。私は、彼が戻って来た時のために、ここに彼に役立つものが残ってないよう確認することとしよう」
彼は話しながら、残っているお金をポケットに入れ、ハーカーが残していった権利書を束のまま手に取り、残った書類を暖炉に流し込んでマッチで火をつけた。
ゴダルミングとモリスは庭に飛び出し、ハーカーは窓から身を下ろして伯爵の後を追った。しかし、彼は厩舎の扉に閂をかけており、無理やり開けた時には既に彼の姿はなかった。ヴァン・ヘルシングと僕は家の裏で聞き込みをしようとしたが、通りは閑散としており、彼が去るのを見た者はいなかった。
午後も更け、日没もそう遠くない。僕たちは、もう打つ手がないことを認める必要があった。僕たちは重い気持ちで、教授の言葉に同意した。
「ミナ奥様の所へ戻ろう──哀れなミナ奥様のところへ。今、我々ができることはすべて終わったが、少なくとも家で彼女を守ることはできる。しかし絶望する必要はない。土の箱がもう一箱あるはずだ。それを見つけなければならない。それが終われば、まだすべてがうまくいくかもしれない」
彼はハーカーを慰めるために、できる限り勇ましく話していた。哀れなハーカーはすっかり参ってしまい、時折、抑えきれない低いうめき声をあげていた──妻のことを思ってのことだった。
悲しい気持ちで僕たちは家に戻った。そこにはハーカー夫人が待っていた。彼女の勇敢さと無私の精神を示す、朗らかな様子だった。僕たちの顔を見ると、彼女の顔は死人のように青ざめ、一、二秒の間、まるで密かに祈るように目を閉じたが、それから明るくこう言った。
「皆さんには感謝してもしきれません。哀れなあなた!」彼女は話しながら、夫の灰色の髪の頭を手で包み、キスをした。「頭をここに寝かせて休ませてちょうだい。あなた、全部まだ大丈夫! 神はお望みとあらば、私たちを守ってくださるんだから」
哀れな男は、うめき声をあげた。惨めさのあまり絶句するしかないのだ。
僕たちは形だけの晩餐をともにして、いくらか元気が出た。食物が空腹の人々に与える単なる動物的な熱量のせいかもしれない──僕たちの誰もが朝食以来何も食べていなかったのだから──あるいは仲間意識かもしれない。とにかく、僕たちはみな惨めさを和らげ、明日への希望がまったくないわけではないと考えはじめた。僕たちは約束どおり、経過をすべてハーカー夫人に伝えた。彼女は、夫に危険が迫っていると思えたときには雪のように白くなり、彼女への夫の献身が明らかになったときには赤くなったが、勇敢に、冷静に話を聞いてくれた。ハーカーが無謀にも伯爵に突進したところでは、彼女は夫の腕にしがみつき、あたかもそのしがみつきによりあらゆる危害から夫を守るかのように力強く抱きしめていた。しかし、話が一段落し、経過が今に至るまで、彼女は何も言わなかった。そして、夫の手を離すことなく、僕たちに囲まれて立ち上がり、次のように言った。この光景を少しでも想像してほしい。あのとても優しく、とても善良な女性が、若さと生気に満ちた輝ける美しさを纏っていたのだ。額には本人も自覚している赤い傷跡があった。その傷跡がいつどのようにしてできたのかを思い出して、僕たちは歯を食いしばった。僕たちの厳しい憎しみに反した彼女の愛情深い優しさ、僕たちのあらゆる恐れと疑念に反した彼女の優しい信仰。しかしながら、これらの善良さや純粋さや信仰といった象徴たちは、神から見捨てられた物であった。
「ジョナサン」彼女はそう言った。その言葉は彼女の唇から音楽のように響き、愛と優しさに満ちていた。「ジョナサン、そして私の真の友人たちよ、この恐ろしい時を乗り越えるために、心に留めておいてほしいことがあります。皆さんが戦わなければならないことは分かっています。真のルーシーを生かすため、偽のルーシーを破壊したみたいに。しかし、これは決して憎しみによる戦いではありません。このような不幸をもたらした哀れな魂は、いっとう哀れな存在です。彼の邪悪な部分が破壊されることで、彼の善良な部分が霊的な永遠を得ることを念慮して、彼の喜びは何であろうかと考えてみてください。彼の死は避けられませんが、彼を哀れまなければなりません」
彼女が話すにつれ、その夫の表情が暗くなった。まるで彼の中の激情が、彼をその芯まで縮めているように、顔を引きつらせた。妻の手を握る力は本能的に強くなり、指の関節が白く見えるほどだった。彼女はその痛みを感じていただろうに、たじろぐこともなく、いつになく魅力的な瞳で彼を見つめた。彼女が話すのを止めると、彼は立ち上がり、彼女から手を離さんばかりになりながら話した。
「神よ、奴の地上での生活を終わらせるのに充分な時間だけ、奴を僕の手に委ねてください。奴の魂を以後永遠に灼熱の地獄に送れるのなら、僕は手を下します!」
「黙って! 黙ってちょうだい! ジョナサン、あなた、神の名において、そんなことを言わないでちょうだい。そうでなければ、恐れと不安であなたに押しつぶされてしまう。あなた、考えてみてちょうだい──この長い長い一日の間ずっと考えていたんだけど、その──おそらく──いつの日か──私も同じく哀れみを必要とするかもしれないの。そして、あなたのような、同じように怒る理由のある人が、哀れみをかけてくれないかもしれない! あなた! 他の方法があったなら、こんな思いをさせなかったのに。神があなたの暴言を、愛情深くて苦悩する男性の、心を痛めた叫び以上のものとして受け取らないよう祈ります。ああ神よ、この哀れな白髪を、生涯何の罪も犯さず、多くの悲しみを背負った彼の苦難の証として、彼をお許しください」
僕たち男は今、みんな涙を流していた。堪えられず率直に泣いた。彼女もまた、自分の優しい助言が効いたことを知り、涙を流した。夫は彼女のそばに膝をつき、両腕を彼女に回して、彼女の服のひだに顔を隠した。ヴァン・ヘルシングが手招きしたので、僕たちは部屋を出て、愛する二人を神と共に部屋に残した。
教授は退室する前に、ヴァンパイアが来るのを防ぐために部屋を整え、ハーカー夫人に安らかに眠れることを保証した。彼女はその保証を信じるように自らを律し、明らかに夫のために、喜んでいるように見せようとした。その態度は勇敢なものであった。その努力が報われたことを信じる。ヴァン・ヘルシングは手元に呼び鈴を置き、緊急時には二人のうちどちらかがそれを鳴らすことにした。二人と離れたあと、クインシー、ゴダルミング、そして僕は、三人で交代に夜を徹して、哀れな女性の安全を見守ろうと決めた。最初の見張りはクインシーに任されたので、残りの者はできるだけ早く寝なければならない。ゴダルミングは二番手なので、すでに寝た。用事が終わったので僕も寝よう。
ジョナサン・ハーカーの日記
十月三日から十月四日にかけての真夜中近く
昨日という日は永遠に終わらないと思っていた。目覚めれば事態が変わっているだろう、どのような変化でも今よりはマシだろう、というある種の盲信から、僕は眠ることを熱望していた。僕たちは別れ際に、次に何をすべきかを話し合ったが、結論は出なかった。僕たちが知っているのは、土の箱が一箱残っていることと、在処は伯爵だけが知っていることだけだ。もし彼が身を隠すことを選べば、何年もの間、僕たちは翻弄されることになる。さすれば、その間に何が起こることか! あまりにも恐ろしいことで、今でさえ考える勇気がない。分かることは次のことだけだ。完璧な女性がいるとすれば、それは僕の哀れな愛しい人だ。昨夜の彼女の優しい憐れみは、僕の怪物への憎しみを卑しく思わせ、それにより僕は彼女を千倍も愛することとなった。このような存在を失って世界がより悪くなることを、神はきっとお許しにならないだろう。これは僕にとっての希望だ。僕たちは今、皆、岩礁の上を漂っている。信仰だけが僕たちの錨だ。神よ、感謝します! ミナは夢も見ずに眠っている。このような恐ろしい経験を土台にして、ミナの夢がどのようなものになるのか、心配だ。僕の目には、夕日が沈んで以来、彼女が落ち着いているように見えなかった。それがしばらくの間、彼女の顔には、三月の寒さの後の春のような安らぎがもたらされた。その時は、彼女の顔を照らした赤い夕日の柔らかさのせいだと思ったが、どういうわけか今は、もっと深い意味があるような気がする。死ぬほど疲れているけれど、眠くはない。しかし、眠らねばならない。明日のこともあるし、もし休息が訪れることがあるとしたら、それは僕が遂に──。
その後。
僕は眠ってしまったのか、ベッドに座ったミナによって起こされた。ミナは驚いた顔をしていた。部屋を真っ暗にしなかったので、よく見えた。彼女は僕の口に警告するように手を当てて、今度は耳元でささやいた。
「静かに! 廊下に誰かいる!」
僕はそっと立ち上がり、部屋を横切り、静かに扉を開けた。
外では、マットレスの上にモリス氏が目を覚まして横たわっていた。彼は手を上げて沈黙を促し、こう囁いた。
「静かに! 大丈夫だからベッドに戻れ。一晩中、俺たちの誰かがここにいる。どんな賭けに出るつもりもないのさ!」
彼の表情と仕草に交渉の余地が見受けられなかったため、部屋に戻ってミナに伝えた。彼女は息をつき、哀れな青白い顔に微笑みを浮かべながら、僕に腕を回して優しくこう言った。
「勇敢な方々に感謝します!」
彼女は息をつき、再び眠りについた。今、眠くないのでこれを書いているが、再び寝られるよう努めねば。