九月十八日発刊『ペルメル・ガゼット』
九月十八日
オオカミの逃亡 本誌記者の危険な冒険
ロンドン動物園の管理人にインタビュー
何度も問い合わせをしては断られ、お守りのように《ペルメル・ガゼット》という単語を唱え続けた結果、動物園のオオカミ部門がある区画の管理人に会えた。トーマス・ビルダーは、象小屋の裏の囲いの中にあるコテージの一棟に住んでいて、私が彼を見つけたとき、ちょうどお茶を飲んでいるところだった。トーマスとその妻は、年配で子供のいない、もてなし上手な人たちで、私が受けたもてなしが彼らの平均的なものであれば、彼らの生活は極めて心地よいものに違いない。夕食が終わり、私たちが満腹になるまで、管理人は彼の言う《仕事の話》に立ち入らない。そして、テーブルが片付けられ、パイプに火がつくと、彼は言った。
「さて旦那、あんさんの思うままに質問できますよ。専門的な話を食事の前にするのを嫌がったことについてはお許しくだせえ。うちの区画のオオカミやジャッカルやハイエナにはね、お茶をあげてから、いっつも質問を始めるんだ」
「動物に質問するってどういうことですか」
私は、彼をおしゃべりで冗談めいた気分にさせたいと思い、質問した。
「竿で頭を殴るのが一つの方法だ。耳をかいてやるのも一つの方法だ。奴らが腹一杯になってメスにちょっと良いカッコしてえって思ってる時はね。俺は前者のやり方はあんまり気が進まねえんだけどよ、つまり、奴らに食事をやる前に竿で殴るなんてことはよ。それよりも俺はね、奴らがいわゆるシェリーとコーヒーを読み終わってから、耳を掻いてやろうとするね。いいかい」彼は哲学的にこう付け加えた。「我々も彼ら動物と同じような性質を持っているのさ。あんさんがやってきて、俺の仕事について質問してきたとき俺は不機嫌で、あんさんの半ソヴリンがなければ、俺が答える前に、あんさんを吹き飛ばしてたとこだよ。旦那が皮肉めかして動物園長にお伺いを立てた方が良いかって質問した時もダメだった。俺はあの時、地獄に堕ちろって怒鳴ったけんど、旦那、腹は立ててないだろうねえ」
「立ててません」
「あの時、やばい言葉を使ったことを、報告してやるって旦那さんは言ったけんど、あれが頭を竿で叩くってことさ。でも、半ソヴリンありゃ万事解決よ。俺は喧嘩したくなかったもん。そんでオオカミやトラやライオンがするみたいに飯を待ってたわけさ。そんで、俺の婆さんがティーケーキを俺の口に詰め込んで、ティーポットのお茶で流し込んでくれてよお、そんで俺もパイプに火をつけてたことだから、旦那は俺の耳を好きなだけかきむしってくだせえ、俺はもう唸りさえしねえから。質問をしなせえ。旦那が来た目的は知ってますぜ、逃げたオオカミのことでしょう」
「その通り、あなたの見解を聞かせていただきたいのです。どのように起こったのか。そして事実関係がわかったら、あなたの把握している限りの原因と、どのように収まる展望なのかをお聞かせ願いたいですね」
「了解しましたよ、お偉いさん。つまりこう言うことさ。あのオオカミのこたバシーカ【訳注:おそらくは訛った「バーサーカー」】っていって、ノルウェーからジャムラックとこにきた灰色の三匹のオオカミのうちの一匹でね、四年前に買ったんでさあ。やつは行儀のいいなかなかのやつで、問題なくやってたんでさ。他の動物じゃなくて、あのあいつが脱走したってのは、脱走事件そのものよりも驚きでしたよ。しかしオオカミは女と同じで信頼できねえもんだからさ」
「話半分に聞くんですよ、旦那さん!」陽気に笑いながらトム夫人がそう言った。「長いこと動物の世話してたから自分もオオカミのつもりなんでさあ! でも、この人は危険じゃあありませんよ」
「そんでさあ、旦那。俺が初めて騒動を知ったのは、昨日の餌の時間から二時間経ったくらいの頃だったんですよ。若いピューマが病気だったもんで、猿小屋の糞掃除をしてたんでさ。しかし吠えたり唸ったりしてる声を聞いたもんだから、俺はそっちに飛んでったのよ。バシーカが、まるで外に出てえみたいに檻を狂ったようにかじってたんよ。昨日はあんま人がいなくて、近くには背が高くて痩せてて、鉤鼻で、尖った顎髭で、そんで白髪混じりの男が立ってただけだったのよ。毅然として冷たい感じで、目が赤くってね。そんでそいつのせいで動物たちが苛立ってるみたいだったんで、俺はそいつが気に入らなかったんでさあ。白い羊革の手袋しててよお、んで動物たちを指差して《管理人よ、オオカミたちは何かに苛立ってるようだね》とか言いやがんのよ。
「《お前にじゃねえの》って俺は行ったのよ、そいつの態度が気に入らなくてね。でもそいつは予想と違って怒らずに、不遜な感じで笑いやがって、そうすると白くて鋭い歯がずらっとならんでやがんのよう。《まあ、彼らには嫌われるだろうね》ってやつは言ったのさ。
「《まあ、好かれるかも知んねえよ》って俺は真似して言ったのよ。《お茶の時間が近づくと、楊枝がわりに骨の一本や二本が欲しくなるらしくてよ。お前さんなら、骨、たくさんありそうだし》
「奇妙な話なんだが、俺らが話してるのを見て動物たちは腹ばいになったのさ、んで、バシーカのとこに俺がいくと、耳をいつも通り撫ぜさせてくれたのよ。そこにその男がやってきて、なんとやつも手を突っ込んでオオカミの耳を撫ではじめたんよ!
「《気をつけなせえよ。バシーカは素早いですぜ》って俺は言ったね。
「《大丈夫さ、慣れてるからね!》ってやつは言ってさ。
「《あんたも同業者なのかい?》って俺は帽子は取ったね。オオカミの取り扱いをしている業者は、まあ良い商売相手ってやつだしな。
《いいや。仕事ではないが、何匹かペットにしているんだ》ってやつは言ったんだ。で、やつは貴族みたいに丁寧に帽子を持ち上げると行っちまった。馴染みのバシーカはやつが見えなくなるまでずっと見てて、その後檻の隅に行ってその晩はずっとそこにいたね。そんで、昨晩、月が上がった途端にオオカミどもが吠えはじめた。吠える理由もねえのに。植物園のむこっかわで誰かが犬を呼んでる声以外は、吠えたてるようなものも何もなかったのに。一、二回様子を見に行ったが、何もなかったね。んで、そんときゃあ吠え声も止まったのよ。十二時前、帰る前の見回りをしてたら、仰天、バシーカの檻のとこにくると、檻の格子が歪められてて檻が留守だったのよ。俺が知ってんのはこんなとこだ」
「誰か、他に目撃者はいないんですか」
「庭師の一人が合唱団から帰るとこだったんだけどよお、植物園の端から灰色のでっかい犬が出てくるのを見たっちゅうのよ。少なくとも、そう奴は言ってるけど、俺は信じねえ。家に帰った時に奥さんに何も言わずによお、オオカミが逃げたのが知れわたってバシーカを探して公園中を探し回ってやっと、見たことを思い出したっちゅうんだから。合唱団の声がやつの頭に悪さしたに仕方ねえや」
「なら、ビルダーさん。オオカミが逃げ出した訳をあなたなら推測出来ますか」
「さてね」と彼は怪しいまでの謙虚さで言った。「できると思うが、俺の仮説に旦那がどれだけ納得するかは知れねえね」
「もちろん納得しますとも。経験から動物を知り尽くしたあなたが推測できないなら、誰ができるって言うんですか」
「それなら旦那、言いますがね。あのオオカミがどうして逃げたのか──あそこから出たかったからでしょう」
トマスと彼の妻が心の底から笑う様子から、これは前にも試みられた冗談であり、そしてここまでの説明はただの詳細にわたるハッタリだとわかった。とても冗談ではトマス閣下に太刀打ちできそうになかったので、彼の心を得る良い手段がないか考えた。そこで私は言った。
「さて、ビルダーさん、最初の半ソヴリンの効果は薄れてしまったようですね。弟の半ソヴリンくんが、これから起こることの推測を話してくれたあとで、あなたの懐に入るのを、待ってますよ」
「旦那、そうでしょうとも」彼は元気いっぱいに言った。「旦那をひっかけちまったのは勘弁してくださいよ。うちの婆さんが目配せしたもんでね、それが俺をそそのかしたんでさあ」
「私はそんなことしてませんよ!」と老婦人は言った。
「俺の考えはこうよ。つまり、オオカミはどこかに隠れてんのさ。あの物覚えの悪い庭師は馬よりも早く北に早駆けしてったとか言ってるようだが、まず、犬やオオカミは馬と違った体格してて早駆けできねえから、俺はあいつのこと信じてねえのよ。物語ではオオカミは良さげに書かれてるがね。群れになって弱っちい得物を追っかけてる時なら、どんなもんでもガブっと噛み付けるだろうが。でも、こりゃほんとの話だが、実際のオオカミっちゅうのは下等動物なんすわ。利口な犬の半分も賢くも勇敢でもないし、その犬の八分の一も戦意がないんすよ。あのオオカミは戦いどころか狩りにも慣れてねえし、きっと公園の中で震えて隠れながら、どこで朝飯食べられるか考えてんだろうよ。それか、石炭貯蔵庫の中にでも入っちまったかも知れねえが。暗闇からあの緑の目で睨まれたら、料理人はびっくりするだろうね! おまんまがなけりゃ探さなきゃならねえから、肉屋にそのうち顔出すかも知れねえな。そうでなきゃ、たとえば子守女がどっかの兵隊と浮ついて散歩でも行って赤ん坊を乳母車に残そうもんなら──まあ、その時は国勢調査で赤ん坊一人分の人口が減ることになっても驚かねえな。そんなとこだ」
私が彼に半ソヴリン渡していると、窓の外を何かがひょこりと動いていき、ビルダー氏の顔の長さが驚きのあまり倍になった。
「なんてこった!」と彼は言った。「バシーカのやつ、自分で帰ってきやがった!」
彼は扉に歩み寄り開けたが、これは全く不要の行為に思われた。私がかねがね思っていたことによると、野生動物というのは耐久性のある障害物を介して見たときに一番よく思われる。個人的な経験も、この考えを強めこそすれ、弱めることはなかった。
しかし、結局のところ、習慣というのは強いものだ。ビルダーも彼の妻も、私が犬を扱うようにオオカミを扱っていた。オオカミの方も、全ての絵本界のオオカミの祖となったあのオオカミが、赤ずきんの親友に変装して信頼を得ようとしていたときのように、平和的でお行儀がよかった。
その光景は、喜劇と悲哀が入り混じったものだった。半日の間、ロンドンを麻痺させ、すべての子供たちを足先から震え上がらせた邪悪なオオカミが、懺悔するようにそこにいて、狡猾な放蕩息子のように受け入れられ、撫でられたのだ。老ビルダー氏は、最も優しい心遣いで悔い改めたオオカミの全身を調べ、それが終わると次のように言った。
「ほれ、俺はこいつがきっと何か面倒事に巻き込まれるってわかってたんだ。そう言ってただろ? 頭は切り傷だらけだし、割れたガラスまみれだ。塀を乗り越えてきたんだろ。割れた瓶を壁の上に乗っけることが許されてるなんてひでえ話よ。お陰様でこのざまあよ。おいで、バシーカ」
彼はオオカミを檻に入れ、肥えた子牛くらいの量の肉片を与え、報告するために出かけた。
私も、動物園での奇妙な脱走事件に関する今日の独占情報を報告するため、その場を去った。
スワード博士の日記
九月十八日
ロンドン行きの汽車に乗るために発つところだ。ヴァン・ヘルシングの電報が届いたとき、僕は愕然とした。僕は一晩を失ったのだ。そして一晩で何が起こる可能性があるか、僕は苦い経験で知っている。もちろん、すべてがうまくいっている可能性もあるが、何が起こりうるだろうか。あらゆる不測の事態が、僕たちの試みを阻むのは、きっと何か恐ろしい運命が僕たちを覆っているからだろう。このシリンダーを持って行って、ルーシーの蓄音機を使って日記の続きを完成させることにしよう。
スワード博士の日記
九月十八日
僕はすぐにヒリンガムに向かい、朝早くに到着した。馬車は門の前で待機させて、一人で玄関口までの並木道を進んだ。ルーシーや母親の眠りを妨げないように、できるだけ静かにノックし、呼び鈴を鳴らし、使用人だけを呼び寄せようとした。しばらくしても返事がないので、もう一度ノックして鈴を鳴らしてみたが、やはり返事がない。こんな時間に寝ているなんて、と使用人たちの怠慢を呪った──もう十時だったのだ──そして、今度はもっとせっかちに鳴らし、ノックしたが、やはり返事はない。その時点までは使用人を責めていたが、今や恐ろしい恐怖が僕を襲い始めた。この応答がない状態は、僕たちを取り囲んでいる運命の鎖の輪の一つに過ぎないのだろうか。僕がたどり着いたのは、手遅れの死の家だったのだろうか。もしルーシーが恐ろしい衰弱を再発していたら、数分、数秒の遅れが数時間の危険につながるかも知れないと思った僕は、家の周囲を回って、どこかに入り口を見つけられるかどうか試してみた。
しかし、侵入する方法は見つからなかった。窓も扉もすべて鍵がかかっていたので、戸惑いながら玄関口に戻った。その時、すばやく駆ける馬の足音が聞こえた。その足音は門の前で止まり、数秒後、ヴァン・ヘルシングが道を走ってくるのに出くわした。彼は僕を見るなり叫んだ。
「君か。で、今着いたんだな。彼女はどうだね。我々は遅すぎたのかね。私の電報は受け取らなかったのかね」
僕はできるだけ早く、首尾一貫して、早朝に彼の電報を受け取ったこと、ここに来るまでに一分も無駄にしてないこと、そして家の中の誰からも返答がないことを伝えた。彼は立ち止まり、帽子を上げて厳粛に言った。
「我々が遅すぎたのではと心配だ。神の御心のままに!」そして、いつものように気を取り直して、彼はこう言った。「さあ。もし入り口がないなら作らなければならない。今は時間がすべてだ」
僕たちは家の裏手に回って、台所の窓のところに行った。教授がケースから小さな外科手術用のこぎりを取り出して僕に渡すと、窓を守っている鉄格子を指差した。僕はすぐに鉄格子に取り掛かり、すぐに三本を切った。そして、薄く長いナイフで窓枠の留め金を押し戻し、窓を開けた。僕は教授が入るのを手助けしてから、彼の後を追いかけた。台所にも、すぐ近くにある使用人の部屋にも、誰もいない。僕たちは、すべての部屋を確認しながら進み、雨戸から差し込む光で薄暗く照らされたダイニングルームで、四人の使用人の女性が床に横たわっているのを見つけた。彼女たちは明らかに生きていた。彼らの荒い息づかいと、部屋に漂うアヘンチンキの刺激的なにおいが、彼女たちの状態を示していたからだ。ヴァン・ヘルシングと僕は顔を見合わせた。そこから離れながら彼はこう言った。
「後で見てあげよう」
それから、ルーシーの部屋に上がった。一瞬扉の前で耳をそばだてたが、何も聞こえない。血のひいた顔と震える手で、僕たちは扉をそっと開け、部屋に入った。
僕たちが見たものをどう説明したらいいのだろうか。ベッドには二人の女性、ルーシーと彼女の母親が横たわっていた。母親は奥に横たえられており、白いシーツで覆われていた。そのシーツの端は、割れた窓からの風によって捲られて、恐怖の表情に固まった白いやつれた顔を見せていた。その傍らには、ルーシーが横たわっていた。顔は白く、さらにやつれていた。首に巻いていた花は母親の胸元にあり、喉はむき出しになっていて、以前から気づいていた二つの小さな傷がひどく白くつぶれているような状態で見受けられた。その時、教授は何も言わずにベッドの上にかがみ込み、頭をルーシーの胸に触れそうな程に近づけた。そして、まるで何かを聞くかのように頭を横向け、そのあと跳び上がって僕に叫んだのだ。
「まだ手遅れではない! 早く! 早く! ブランデーを持ってこい!」
テーブルの上にあったシェリー酒のデカンタのように、薬が盛られていないか匂いと味に気をつけながら、階下に飛んで行ってブランデーを持って戻った。メイド達はまだ寝息を立てていたが、より寝息が不安定だったので、催眠剤が切れたのだと推測した。僕はそれを確かめるために留まることなく、ヴァン・ヘルシングのもとに戻った。彼はまた別の機会にそうしたように、ブランデーを彼女の唇と歯茎、そして両手首と手のひらにすり込んだ。そして、こう言った。
「今できることは私だけでこなせる。君はあのメイドたちを起こしてきなさい。濡れタオルで顔を強くはたくんだ。暖房と暖炉と暖かい風呂を用意させるのだ。このかわいそうな人は、隣の遺体と同じくらい冷たくなっている。これ以上何かする前に、体を暖めなければならない」
僕はすぐに階下に降りた。女性たちのうち三人は、起こすのにそれほど苦労はしなかった。四人目はまだ幼い少女で、薬の影響がより強いことが明らかだったので、ソファーの上で寝かせておいた。他の者は、はじめはぼんやりしていたが、記憶が戻ると、ヒステリックに嗚咽し泣き出した。しかし、僕は彼女たちに厳しく接し、話をさせなかった。僕は彼女たちに、一人の命を失うのだけでも充分悪いことであり、のんびりしていたらルーシー嬢をも犠牲にすることになると言った。そこで、嗚咽し泣きながら、半ば衣服を乱したままに彼女たちは動き出し、火と水の用意をした。幸い、台所のボイラーの火が生きていて、湯を出せた。僕たちは風呂を用意し、ルーシーを服を着たまま運び出し、風呂に入れた。僕たちが彼女の手足を揉んでいると、広間の扉がノックされた。メイド達の一人が駆け出し、急いで服を重ね着し、扉を開けた。そして戻ってきた彼女は、ホルムウッド氏からの伝言を持ってきた紳士がいると、僕たちにささやいた。僕は彼女を介して、今は誰にも会えないから待つように伝言した。彼女はそのメッセージを携えて立ち去り、僕は仕事に没頭して、来客のことをすっかり忘れてしまった。
僕は自分の経験の中で、教授がこれほど真剣に取り組んでいるのを見たことがなかった。僕も彼も、これが死との戦いだと知っていた。一瞬、手を止めて彼にそう告げた。彼は、僕が理解できない言い方ながら、最も厳しい表情で、僕に答えた。
「単なる死との戦いなら、今ここで手をとめ、このままルーシー嬢が安らかに亡くなるのを待つがね。彼女の人生の先には、生命の光が見えないのだから」
そうして彼は、より熱狂的で新たな活力を持ってして仕事を続けた。
やがて僕たちは、風呂の熱さが何らかの効果を発揮し始めたことに気づき始めた。ルーシーの心臓の鼓動は聴診器で聞き取りやすくなり、肺の動きもわかるようになった。ヴァン・ヘルシングの顔はほとんど輝かんばかりで、彼女を風呂から上げ、暖かいシーツに包んで乾かすと、彼は僕に言った。
「最初の勝利は我々のものだ! チェックメイト!」
僕たちはルーシーを準備されていた別室に連れて行き、ベッドに寝かせ、ブランデーを数滴喉に流し込んだ。僕はヴァン・ヘルシングが柔らかいシルクのハンカチを彼女の喉に巻いているのに気づいた。彼女は依然として意識がなく、以前と同じか、もしくは今まで見たこともないようなひどい状態だった。
ヴァン・ヘルシングはメイドの一人を呼び寄せ、僕たちが戻るまで彼女のそばにいて目を離さないようにと言い、僕を部屋の外に手招いた。
「どうすべきか相談しなければならない」
彼はそう言いながら階段を降りた。彼は廊下からダイニングルームの扉を開け、僕たちは中に入り、彼は扉を注意深く閉めた。雨戸は開いていたが、ブラインドはすでに下りていた。下層階級の英国女性が常に厳格に守っている死に対する礼儀作法に従ったものであった。そのため、部屋は薄暗かった。しかし、僕たちの目的には充分な明るさだった。ヴァン・ヘルシングの表情の厳しさは、困惑の表情でいくらか和らいでいた。彼は明らかに何かで頭を悩ませているようだったので、しばらく待っていると、彼はこう言った。
「どうするべきか。どこに助けを求めればいいのだろう。輸血を再度、すぐに行う必要がある。このままでは、あのかわいそうな少女の命は、一時間もつまい。君はもう疲れきっている、私も疲れきっている。あの女性達がたとえ勇気を出して手を挙げたとしても、信用するのが怖い。彼女のために血管を開いてくれる人を確保するのに、どうしたらいいんだろうか」
「俺の話をしてんのかい」
その声は部屋の向こうのソファから聞こえてきた。その声色は、僕の心に安堵と喜びをもたらした。クインシー・モリスの声だったからだ。ヴァン・ヘルシングは最初の言葉で怒り出したが、僕が「クインシー・モリス!」と叫び、手を広げて彼に駆け寄ると、彼の顔は和らぎ、嬉しげな目をした。
「どうしてここに来たんだ?」
僕は彼と握手しながら叫んだ。
「アートが原因さ」
彼は僕に電報を手渡した。
《スワード ミッカマエヨリ タヨリナシ。ヒジョウニ シンパイダガ カエレズ。チチノ ヨウダイ イマダフス。ルーシーノ ヨウダイ シラセヨ。イソゲ。 ホルムウッド》
「ちょうどいいところに来たようだ。何をすればいいか言うだけでいい」
ヴァン・ヘルシングは前に進み出で、彼の手を取って、彼の目をまっすぐに見ながら、次のように言った。
「女性が困っているとき、勇敢な男の血はこの地球上で最良のものだ。君は間違いなく男だ。悪魔は我々を苦しめるが、神は必要な時に人を遣わされるのだ」
僕たちは再び、あの恐ろしい施術をおこなった。詳細を書くつもりはない。ルーシーはひどい衝撃を受けており、それが症状にも現れていた。大量の血液が彼女の血管に流れ込んだにもかかわらず、彼女の体は他の時と同じようには治療に反応しなかったのだ。彼女が生還しようともがくのは、見るも聞くも恐ろしいものであった。しかし、やがて心肺の働きがよくなり、ヴァン・ヘルシングが前回と同様にモルヒネを皮下注射したのが効果をあげた。彼女の昏睡はやがて深い眠りとなった。教授が彼女を見守る中、僕はクインシー・モリスと一緒に階下に行き、待機していた御者の一人に支払いを済ませるよう、メイド達の一人を送った。僕はクインシーにワインを一杯飲ませたあと、クインシーを横たえたままにして、料理人においしい朝食を用意するように言った。そこで僕はあることを思いつき、ルーシーのいる部屋へ戻った。そっと中に入ると、ヴァン・ヘルシングが一、二枚の覚書用紙を手に持っていた。彼は明らかにそれを読んだようで、眉間に手を当てて座りながら考えていた。その顔には、疑問が解決した人のような、重苦しい納得した表情があった。彼は僕に用紙を渡し、こうとだけ言った。
「ルーシーを風呂に運んだとき、胸元から落ちたのだ」
僕はそれを読んでから、教授を見つめ、しばらくしてから彼に尋ねた。
「いったい全体どういうことなんでしょうか。彼女は気が触れたのでしょうか、それとも恐ろしい出来事が起こったとでもいうのでしょうか」
僕は困惑して、それ以上何を言っていいのか分からなかった。ヴァン・ヘルシングは手を出して、その紙を取り、こう言った。
「今は悩まないことだ。今のところは忘れていなさい。いずれわかるようになるのだから。それで、何を言いに来たんだね」
この一言で僕は我に返り、再び自分を取り戻した。
「ルーシーの母親の死亡診断書について話をしに来たのです。もし僕たちが適切かつ賢明に行動しなければ、審問が行われ、その紙も提出しなければならないかもしれません。もし審問が行われれば、ルーシーは間違いなく死んでしまうでしょうから、僕は審問が行われないことを望んでいます。ウェステンラ夫人の死因が心臓病であることは、僕もあなたも、そして彼女を診察した他の医師も知っていることですし、僕たちは彼女がそのために死んだと証明できます。すぐに証明書を作成し、僕が登記所に持って行って、そのまま葬儀屋に向かいます」
「さすが、ジョン君! よくぞそれに思い当たってくれた! ルーシー嬢は、敵に苦しめられ悲しんだとしても、愛する友に恵まれて幸せだろう。一人の老人を除くと、一人、二人、三人が皆彼女のために血管を開いたのだから。ああそうだ、ジョン、私は盲目ではないのだから君の気持ちはわかっているとも! だからこそ一層、君を愛しているのだ! さあ、行ってきなさい」
廊下で、アーサー宛の電報を持ったクインシー・モリスに会った。ウェステンラ夫人が亡くなったこと、ルーシーも病気だったが今は快方に向かっていること、ヴァン・ヘルシングと僕が一緒にいることを電報は伝えていた。彼に行き先を告げると、彼は僕を急いで外に送り出した。しかし外に出る僕に、こう声をかけた。
「帰ったとき、少し内密の話をして良いかい」
僕は頷いて外に出た。登記には何の問題もなかった。夕方に地元の葬儀屋に来てもらい棺の寸法を測ってもらう手配をした。
帰ると、クインシーが待っていた。ルーシーの様子を見たらすぐに会いに行くと伝えて、ルーシーの部屋へ向かった。彼女はまだ眠っていて、教授は彼女のそばから動いてないようだった。唇に指を当てているところを見ると、間もなく彼女が起きると思っていて、自然な眠りを妨げるのを恐れているのだろう。そこで僕はクインシーの元に下りて、彼をモーニングルームに連れて行った。そこはブラインドが下ろされておらず、他の部屋よりも少し雰囲気が明るいというか、元気がないことはない部屋であった。二人きりになった時、彼は僕に言った。
「ジャック・スワード、俺は関係ないとこに首を突っ込むのは嫌なんだが、これは普通の状況じゃないからな。知っての通り、俺はお嬢さんを愛してたし、結婚もしたかった。もう過ぎたこととはいえ、お嬢さんのことが心配で仕方がない。何が問題なんだ。あのオランダ人──立派な爺さんなのはわかるが──と君の二人が部屋に入ってきた時、もう一回輸血をしなければならないと言ってたな。二人とも疲れ果ててしまったと。君たち医学者が内密に話していることはよく知ってるし、君らの相談事を知ろうなんて望むらくもないのは承知の上だ。でも、これは普通じゃない。この状況が何であれ、俺は俺の役割を果たしたんだろう」
僕が「そうだ」と答えると、彼はさらにこう言った。
「君もヴァン・ヘルシングも、俺が今日したことをすでにやったんだろう。そうじゃないかい」
「そうだ」
「で、アートもなんだろう。四日前、アートの家で会ったとき、奇妙な様子をしていた。パンパス【訳注:アルゼンチンの草原】にいたとき、気に入っていた雌馬が一晩でおっ死んじまったとき以来、こんなに急激に生命力を失うのを見たことがないね。ヴァンパイアって呼ばれてるでかいコウモリが夜中に雌馬に襲いかかって、血を吸われたのと静脈が開いたままだったのとで立ち上がるのに充分な血液がなくなっちまって、横になっているあの子を銃で撃つしかなかったんだ。ジャック、もし秘密を守りつつ言えるなら教えてほしいんだが、アーサーからの輸血が初めてだったのか」
その話をしながら、彼はひどく不安そうな顔をした。彼は自分が愛した女性について心労という拷問を受けていた。そして、彼女を取り囲んでいるように思える恐ろしい謎について全く知らないことが、彼の苦悩を深めていたのだ。彼の心はまさに血を流しており、取り乱さないためには、彼の持つ男気全て──それはすごく途方もない分量なのだが──を必要とした。教授が秘密にしておきたいことを漏らしてはいけないと考え、答えるのをためらった。しかし、すでに彼は多くのことを知り、多くを推測していたので、答えない理由はないだろうと思い、同じ言葉遣いで、「そうだ」と答えた。
「いつからこうなんだい」
「十日くらいだ」
「十日! つまりだが、ジャック・スワード、みんなが愛してやまない可憐な女性の血管に、十日間で四人の屈強な男の血が流れ込んだんだな。なんてこった、彼女の全身をもってしても溢れんばかりの血液量なはずだろう」
そして、僕の近くに来て、彼は鋭く半ば囁くように話した。
「何が血を取り出したんだい」
僕は首を横に振った。
「そこが」と僕は言った。「肝心なところだ。ヴァン・ヘルシングは、ただただ必死でそれに取り掛かっているし、僕は途方に暮れている。推測もつかない。ルーシーを適切に見守るという僕たちの計算を狂わせるような、瑣末な事態が立て続けに起こったんだ。しかし、このようなことは二度と起こさせない。彼女の体調が万全になるまで、あるいは病気になるまで、僕たちがここにいよう」
クインシーは手を差し出した。
「俺も頼ってくれ」と彼は言った。「君とオランダ人は何をすべきか指示してくれ。俺はそれをやる」
午後遅く目覚めたルーシーが最初にしたことは、胸元を触ることだった。そして驚いたことに、胸元からは、ヴァン・ヘルシングが僕に読むようにと渡した紙が出てきた。用心深い教授は、目覚めたときに彼女が心配しないように、元あった場所に戻したのだ。そしてヴァン・ヘルシングと僕に注がれた彼女の目は、喜びに輝いた。そして彼女は、部屋を見渡し、自分がいる場所を見て、震え上がった。彼女は大きな泣き声をあげ、青白い顔をやせほそった両手で覆った。僕たちは、その反応が何を意味するのか理解した──母の死を完全に悟ったのだ。僕たちは彼女を慰めようと、できる限りのことをした。僕たちの同情は確かに彼女をいくらか慰めたが、彼女は思考も精神も非常に落ち込んでいて、長い間黙って弱々しく泣いていた。僕たちのどちらか、あるいは両方が、これからずっと彼女のそばにいるのだと僕たちが言うと、その言葉には慰められたようだった。夕暮れ時、彼女はうとうとと眠ってしまった。ここで非常に奇妙なことが起こった。眠りながら、彼女は胸元から紙を取り出し、二つに裂いたのだ。ヴァン・ヘルシングはその切れ端を奪い取ったが、彼女はその紙がまだ手の中にあるかのように裂く動作を続けた。ついには両手を上げ、その破片を散らすかのように開いた。ヴァン・ヘルシングは驚いたようで、眉を寄せて考え込んでいたが、何も言わなかった。
手紙 ミナ・ハーカーよりルーシー・ウェステンラ宛(宛先人未開封)
九月十八日
親愛なるルーシーへ
悲劇が起きた。ホーキンスさんが急死されたの。私たちには無関係だと思う人もいるかもしれないけれど、私たちはホーキンスさんをとても愛してたから、まるで父を亡くしたような気持ち。私は父母を知らないから、このお爺さんの死は私にとって本当に大きな痛手なの。ジョナサンはとても悲しんでいる。生涯にわたって自分を可愛がってくれ、最後には自分の息子のように扱ってくれ、かつ我々のようなつましい育ちの人間にとっては、夢見ることもできないほどの財産を残してくれた親愛なる善人に対して、深い悲しみを感じているわ。ただ、ジョナサンには悲しむ別の理由もあるの。彼は、ホーキンスさんから引き継いだ責任の重さに神経をすり減らしているらしいの。自分自身を疑い始めてるみたい。彼を励まそうとしてるわ。私が彼を信じることが、彼が自分を信じる手助けになるらしいから。大きな衝撃を経験したことが、彼の自信にいちばん影響してるみたい。彼のように優しく、素朴で、気高く、強い性質が──親愛なる親友であるホーキンスさんの助けによって、二、三年で秘書から経営主にまで上り詰めた性質が──その強さの本質を失うほど傷つくなんて、辛すぎる。あなたの幸せの真っただ中に、私の悩みで心配させて、ごめんなさい。でもルーシー、誰かに話さなくては耐えられないの。なぜって、堂々とした明るい姿をジョナサンに見せ続けることの緊張に苦しめられているし、ここには誰も打ち明けられる人がいないから。ロンドンへ行くのが心配、明後日にお葬式があるの。ホーキンスさんは父と一緒に埋葬してほしいと遺言してたから。親族はいないのでジョナサンが喪主を務めるわ。ほんの二、三分でも、あなたのもとへ駆けつけようと思ってる。迷惑をかけてごめんなさい。祝福を込めて。
あなたの愛する
ミナ・ハーカー